【KAC20231】おとどけもの

草群 鶏

おとどけもの

 深い緑色のエプロンに、銀杏の葉をかたどった金色のピン。

 銀杏堂書店は、近隣の学生や読書愛好家の駆け込み寺として知られている。都市部に立地している点を差し引いても取り寄せなどの対応が大変早いうえ、たまに大型書店ですら品揃えしないような稀覯本、少部数発行本がぽっと見つかるというのは界隈では有名な話で、これを目当てに定期巡回しにくる客も少なくない。たしかに街の本屋さんとしては広い売り場面積を備えているし、名物書店員と呼ばれるようなスタッフもいるけれど、店先に雑誌の最新号をずらりと並べ、話題作には手書きPOPをつけてドーンと展開し、スタッフや著名人の選書コーナーで目利きを唸らせる、奇をてらったところのない、ごく普通の書店だ。

 こちら側の世界では。

 銀杏堂には裏の顔がある。地下売り場のさらに奥、地下書庫にある重たい鉄扉のことは、ごく一部の関係者しか知らない。


 *


「あーこれだこれ、探してたんですよ」

 乾いた手でハードカバーの背表紙をくるむように撫でながら、老齢の男性がほうっとため息をついた。文筆業のかたわら大学の教壇に立つ彼は〈教授〉と呼ばれ、古くから銀杏堂の常連である。また、問い合わせから商品引き渡しまで、橘彦が一人で対応した初めてのお客様でもあった。

 折原橘彦おりはらきつひこが銀杏堂に勤め始めて三ヶ月ほどが経った。社会人経験はそれなりにあるとはいえ書店員としては駆け出し、はじめのうちはわかる者に用件を取り次ぐことしかできず、自分には古の電話交換手のほうが向いているんじゃないかと思い始めていたので、今回やっと独り立ちできて心底ほっとしている。

「お役に立ててよかったです」

「でもよくこんなマニアックな本置いてたね」

 教授はわずかにおどけた調子で本から目を上げる。橘彦は内心ぎくりとしたものの、そつのないふうを装った。

「それご自分で言います?」

「いやありがたいけどさあ」

 気持ちはよくわかる。橘彦自身も、発注しておきながらまさか売れると思っていなかったからだ。それほどに需要のありかがわからない、実におどろおどろしい本であった。

「一冊でいいから扱ってくれって頼まれまして」

「だれに?」

 同士の予感に教授が目を輝かせる。橘彦は己の失言を知った。

「えーと」

「折原くん」

 橘彦の背後から、静かだがはっきりと制止の声がかかった。教授とは同世代の、店主の森本である。振り返れば、老眼鏡の向こうで大きく見える目がわずかに細められ、無言の圧力を発している。橘彦は彼の目配りに感謝しつつ、固まった顔を愛想笑いで崩した。

「まあ、ちょっと言えないです」

「わかったわかった。大人の事情ってやつね」

 教授も深追いする気はなかったらしい。手に入れた本を鞄に大事そうにおさめると、馴染みの店主に向けて軽く手を挙げた。

「あまり若い子をいじめるんじゃないよ」

「いじめてませんよ、ひよこに飛び方を教えるのは年長者の役目ですから」

「こりゃまた大きなひよこだ」

「本当に」

 老人二人にはさまれてひよこの眉がハの字になった。その腕を励ますようにぽんぽんと叩いて、教授は上機嫌で店をあとにする。

「ありがとうございました」

「はいはい、また来るよ」

 老いてなおすっと伸びた背がやがて見えなくなると、橘彦はどっと肩を落とした。

「すみません」

「ぼくらは話すのも仕事だけど、言わないってことはもっと大事だからね」

「はい」

 多くを語る必要はないと判断したのか、森本は橘彦の肩をもって、その場を離れる。すると、入れ替わりにバチーンと背中に衝撃がはしった。

「いって!」

 振り返るまでもない。黒のポニーテールがつるんと揺れて、橘彦の視界はあっという間に火花で満たされた。浅葱巴は、力加減というものをまるで知らない。

「いま手あいてる? あいてるよね?」

「なんですかその脅迫みたいな」

「だってこっちが本職でしょ。おつかい、行ってきてくんない」

 巴の言い方は乱暴だが事実だった。橘彦はまだ店頭に立っても大して役に立たない。おとなしくご案内カウンターに呼び出し用のベルを置いて事務所に引っ込むと、巴が示した作業用の長机に、小風呂敷の包みが鎮座していた。

「菓子折り……?」

「うちは本屋ですけど」

「まあ……」

 ということは中身は書籍に違いない。ただ、いつもの〈配達〉ならビニールの平袋か紙袋で十分だ。嫌な予感がして橘彦が包みを手に取ると、風呂敷にはばっちり〈防炎〉のラベルがついていた。


 *


 地下の売り場に降りて、学参やコミック、専門書の並ぶ棚を抜ける。レトロな玉暖簾のかかった物置の入り口をくぐると、書架に守られるようにして、古びた鉄の扉があらわれた。

 半円の取っ手を引き出してぐるりとまわすと、扉は手前側へ滑らかに開いた。闇がぽっかりと口をあけ、どこかかぐわしい風が通う。それは、この先がただの地下道ではないことを示していた。

 橘彦の背には黒いザック。届け物はさきほどの包みがひとつだが、配達がうっかり長期化してしまった場合に備え、二泊ぶん程度の荷物を詰めてこの物置に置いたままにしている。靴もくるぶしまであるがっちりしたものに履き替えた。書店員として赴くのでエプロンはそのまま、妙な取り合わせだが、毎度のことなので気にしない。

 後ろ手に扉を閉めた途端、橘彦の身体は暗闇に溶け出した。こちらも慣れたもので、迷いのない足取りで奥へ奥へと進んでいった。この暗闇のなかで、壁にぶつかったことはただの一度もない。なんとなく地下通路だと思っているけれど、実際どんな様子なのかは店主の森本ですら知らないという。

 やがて行く手にうっすらと青い色がにじみ、近づくにつれて輪郭がはっきりしてきた。出口だ。暗闇からすっかり抜け出すと、橘彦の視界いっぱいに大きなすり鉢状の地形があらわれ、その中央にはるか聳える山のような樹木が見晴らしを阻んだ。

 ここは架空のものが実在する異界。人々が思い描き、世界や民族の起こりを紐解くもの、あるいは娯楽としての物語や創作の数々、多くの人の手によって練り上げられた文化や個人のひそかな愉しみ、そうした〈創られたものたち〉が息づく世界である。

 橘彦は生まれつき、現実世界から異界を見透かす力をもっている。特殊な採用の経緯があり、特殊な雇用形態のため書店仕事の習得がなかなか進まないのだが、客から見ればただの「覚えの悪い兄ちゃん」になってしまうのがどうも腑に落ちないでいる。かといって、こちらの仕事をおおっぴらにするわけにもいかない。手にした案内図に目を落とし、すり鉢の底へと降りていきながら、橘彦は足早に配達先へと向かう。

 ここにはありとあらゆる生き物、生きていると表現していいものかわからないが動くものが多数存在する。さまざまな形をした建造物が大小取り混ぜて街の様相をなしているが、その多くが書架が擬態したものだ。窓や扉に見えるものは書物の表紙、開けてみればそれぞれの分岐世界につながっている。方角は中央に聳える〈世界樹〉に取り付いた九つの塔で知ることができ、橘彦が向かうべきは鉄の塔の方角。すり鉢の底に近い第二階層、隕石の風洞。字面からすでに陰気な気配が漂う。

「あった」

 金属的な光沢のある岩にぱっくりと開いた亀裂。大きなきのこに擬態した本をよけて頭をつっこむと、橘彦の身体はしゅるりと吸い込まれていった。


 *


 重たく息詰まるような鈍色の空、一面を暗褐色の炎がめらめらと覆い尽くしている。ひどく歪んだ影が視界を行き来して、時折よぎる風は煙と硫黄のまじったようなにおい。無意識に呼吸が浅くなる。防炎風呂敷のわけはこれかあ、と嘆息しながら、橘彦はなんとか道らしき足場を辿っていった。

「あのう、銀杏堂書店からお届け物ですー」

 大岩が連なる場所にあたりをつけて、ザックを身体の前に回した。例の小風呂敷とペットボトルを取り出して、軽く水を含む。潤った喉で、もう一度呼ばわった。

「こんにちはー、本のお届けものですー」

 ぱちぱちと火のはぜる音に耳が慣れたころ、地面が低く唸りを上げた。あわてて見回すと大岩がゆっくりと動き出したところで、橘彦の頭上で金色の双眸がぱちりと開く。

「むむむ、早かったな」

「あ、こちらでしたか」

 大岩から腕がのび、お客様の全貌が明らかになった。ごつごつと硬い皮膚、黒い蔦のようなものが頭部を覆い、ねじ曲がった角がこめかみのあたりから二本、にいと笑ってみせた口には前後二枚の牙がずらりと並ぶ。見まごうことなき恐怖の化身、大鬼の親玉である。

「どれ」

 差し出された手には鋭い鉤爪。人間の頭など軽く握りつぶせそうな厚みにいくらか怯んだが、そんなことをしても相手に利がないことはこれまでの経験で十分わかっている。轟くような声の片隅に期待の響きがまじっていることを感じ取って、橘彦の緊張はだいぶほぐれた。求めていた本を手の取るときの喜びは、人間も鬼も変わらないのだ。

 橘彦が風呂敷包みをそっとのせると、鬼は爪の先で器用に結び目を解いて、本の表紙を開いた。

「小さいな」

「人間に合わせて作ってありますからね。お手伝いしますか」

「いや」

 鬼はぐるりと背を向けて、なにやらごそごそやりはじめる。顔が見えないと本当に岩にしか見えないな、などとのんきに待っていると、大岩は取り出した道具をうれしそうに掲げた。

「森本さんにいただいてな」

 どこで手に入れたものか、驚くほど大きなルーペである。よくよく見たら備品シールが貼ってあって、準備室云々の文字がのぞいた。どうも理科の実験用のお古のようだ。大鬼が背を丸め、人間の書物をルーペで覗き込んでいる。なんとも微笑ましい姿である。

「お品物にまちがいなければ、僕はこれで」

 口元に笑みをにじませつつ、橘彦はその場を辞そうと頭を下げた。

 ところが。

 その後頭部にドスンと衝撃がはしって危うくつんのめる。落ちてきたのは塩辛いお湯で、橘彦の上半身はぐっしょり濡れてしまった。まったく状況が読めず困惑したまま目の前の大鬼を見上げると、彼がぼろぼろと涙をこぼしている。

「えっ、どうしたんですか」

 思わず問いかけると、大鬼の声が切々と轟く。

「きみはこれを読んだことあるか」

「あっ」

 向けられた装画には見覚えがあった。届け物の内容までは確認していなかったが、まさにさきほど、教授に手渡したあのおどろおどろしい本である。

「我らのことをこんなに熱心に書いてくれるなんてなあ」

 隅々まで読んだわけではないが、大まかな内容は知っている。悪鬼羅刹について研究しまとめられたもので、鬼をはじめとした研究対象は疫病や人間の負の側面の象徴としてさんざんな書かれようのはずだが、流れる涙はどうも感激に由来するらしい。

 何が喜ばれ、何が求められるかなんてわからないものだ。

「ありがとう」

「こちらこそありがとうございます。またのご注文、お待ちしてます」

 橘彦は今度こそ帰路につく。背後に大鬼の嗚咽まじりの地鳴りを感じながら、日に二冊も売れた本のことを思った。同士がいると知ったら、教授も大鬼もどれだけ喜ぶことだろう。本人たちの対面が叶わないのはなかなかに歯がゆいが、この縁に自分の仕事が関わっていると思うと足取りが軽くなる。

 やはり書店のほうの仕事ももっとがんばろう、と決意を固めつつ風穴から這い出した橘彦であった。

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