理想の本屋さん

宮条 優樹

理想の本屋さん




 こんな理想の本屋さんがある。


 住宅地からも商店街からも離れてたたずむその本屋さんは、ひっそりと、そういう形容詞がいかにも似つかわしい様子で目の前に現れる。

 まるで何十年も、何百年も昔から、この場所にずっと同じ姿で立っていました、と言われたら素直に信じてしまうほど、その本屋さんはセピア色の森の中になじんでいる。

 なじみすぎて、もはや背景の森に溶け入りそうになっていると言ってもいい。

 春には山桜、秋には紅葉で色がつく森の中、ちんまりと立っている本屋さんの様子は、古い絵本の挿絵そのままだ。

 白雪姫に登場する、七人の小人が住む小屋だと言われれば、これまた信じてしまいそうになるほどに。


 これが本屋さんだと言われても、とっさにはわからないだろう。

 看板も表札も出ていないその外観からは、初見ではまず、お店とも民家ともわからない。

 蔦の這った建物の壁には窓がなく、中の様子をうかがうこともできない。

 装飾も何もない、建物の唯一の扉はやけの重々しく見えて、そのドアノブに手を伸ばすことはちょっとばかりためらってしまう。


 きっとはじめてこの場所を訪れたあなたは、手元の招待状に書かれた住所と、ここまで道案内してくれたマップアプリの表示を交互に見比べてみて、不安になるに違いない。

 住所が間違っているのか、アプリのエラーか、はたまた自分の目か頭がおかしくなってしまったのか。

 そんな疑惑に動揺してしまうかもしれない。


 しかし、心配ご無用である。

 招待状もアプリもあなたの頭も間違っていない。


 そこはまぎれもなく、あなたのための本屋さんなのである。


 それがわかっているので、私は恐れることなく、けれど期待に胸を高鳴らせながら、冷たいドアノブに手を伸ばし、そっと扉を開けるのだ。



 一歩建物に足を踏み入れると、中は更に静けさに満ちている。

 静謐な空気は肌に涼しさを感じるほどで、仄暗さと共に、この本屋さんの中に特別な雰囲気を作り出している。

 暗さはあるが、不自由ではない。

 白っぽい照明が、目立たず、しかしあるべきところにきちんと備えられているのだ。

 そのさりげなさ、過不足のない設計が、招待客である私のことを考えた上であることは、私が目的のものをすぐに見つけられたことからよくわかる。


 部屋の中には本棚がある。

 天井まで届く高さのものもあれば、一人がけのソファーの横に、こっそりと置かれた小さなものもある。

 大小いくつもの本棚が、子供が無邪気に積み木を並べたような無秩序さで、さほど広くもない部屋の中、あちらこちらにたたずんでいる。


 私はまず目についた、背の高い本棚に近づく。

 こつこつと、木の床を鳴らす自分の足音だけ響くのが、この場所が今だけ私一人の貸し切りだという証明になって、私の気分を浮き立たせる。


 一日一人、招待客だけにその扉は開かれる――ここはそういう本屋さんなのだ。


 私は自分の身長よりも高いその本棚を、上から順番に眺める。

 上から下までびっしりと、きれいに並んだ文庫本の背表紙、そこに書かれた題名の一つ一つを、私の目は丹念に追っていく。


『盲目の理髪師』『緑のカプセルの謎』『曲がった蝶番』……『占星術殺人事件』『斜め屋敷の犯罪』『異邦の騎士』……『月の影 影の海』『風の海 迷宮の岸』『東の海神 西の滄海』……。


 シリーズもののタイトルが、一つの抜けもなく整然と並んでいることの美しさ。

 しかもそれが自分の好きな作家ばかりという、その完成された美を目の前に、私は思わず溜息をつく。

 完璧とはまさにこのこと。

 自分の家にもこんな本棚がほしい。

 この棚ごと買って家に置きたい。


 本屋さんの棚、丸ごと欲しい。

 これは本好きなら一度は思ったことがあるのではないだろうか。

 理想の本棚を目の当たりにして、その物欲が私の心にむらむらとわき上がる。

 まあ、現実には無理だけど。

 思うだけなら自由である。


 私は完璧なる本棚の魅力に後ろ髪を引かれながら、次の本棚に視線を移す。


 その幅広の本棚には、ハードカバーが並んでいる。

 表紙をお客に見せる、いわゆる「面出し」という陳列で、いろいろな本の顔が並んでいるのだ。


 黄色を背景にした絵日記の一ページのような表紙の『たんぽぽのお酒』

 暗闇の中に浮かぶ、蜘蛛の糸と白い女性の顔が印象的な『サーカス団長の娘』

 鮮やかなマゼンタ一色、妖しいような線画が目を惹く『ロンバルディア遠景』


 どれもきれいで、魅惑的な表情でこちらを誘ってくる表紙たち。


 その中の一冊に、私の目は釘づけになる。

 濃い青色の夜空を背景に、真っ白な馬が一頭、駆けるように飛んでいる。

 美しい表紙だ。

 そして、私にとっては思い出深い表紙だ。


 いぬいとみこ作『山んばと空とぶ白い馬』


 小学生の頃、学校の図書室にあった一冊で、大好きな本だった。

 表紙の神秘的な様子に惹かれて手に取り、読んでみて、たちまち夢中になって、ずっとこの本ばかり読んでいた。

 本当に、小学生の間中、何度も何度も読んだのだ。

 貸し出しカードに、私の名前だけが、何度も何度も書かれるくらいに。


 懐かしさに、私は自然とその青い本を手に取る。

 子供の頃はとても分厚くて重く感じたそのハードカバーは、大人になった今手に取ると、思い出の中よりも軽かった。

 けれど、その見知った表紙を見つめていると、心はあの小学生時代に戻っていくようだ。


 教室のざわめき、チョークが黒板をたたく音、苦手だった体育の授業、給食のクリームシチューの甘い匂い。


 懐かしいという思いは、かすかに苦みと痛みを持って、じんわりと胸の奥底に広がっていく。


 久しぶりに読んでみようか。

 私は『山んばと空とぶ白い馬』を片手に、かたわらのくすんだソファーに腰を下ろす。


 ソファーのクッションはほどよい柔らかさで私の腰を包む。

 今日、この本屋さんは、私のためだけの貸し切りだ。

 夜の帳が下りるまで、いつまでもいていいし、いくらでも試し読みをしてもいい。

 他にお客も、店員すらいない、無人の本屋さん。

 人目を気にすることなく、私は気がすむまで読書の世界に遊ぶことができるのだ。


 背もたれに身を預けてみると、ふと床の上のおもちゃ箱に目が行く。

 素朴な木のおもちゃ箱の中にも、やっぱり本が入っている。

 並んだ薄い背表紙は、どれも絵本だ。


『スイミー』『フレデリック』『コーネリアス』……小さい頃、母親が読み聞かせてくれたレオ・レオニの作品たちだ。


 この絵本たちは、まだ実家の本棚にあるんだろうか。

 長らく帰っていない田舎の景色が思い出される。


 絵本も今読んだらおもしろそうだな。

 そう思いながら、私はまず手の中の青い表紙を開くのだった――。




   * * *




「――っていう本屋さん、どっかにないかなぁ」


 いい具合に酔いが回って舌がなめらかにすべるのにまかせ、しゃべり散らかした妄想の最後を、私はそう締めくくった。

 対面のテーブルで私の長々とした妄想を聞いてくれていた友人は、空になった私のグラスに新しくワインを注ぎながら言う。


「調べてみたら? 

本好きの物好きが似たようなお店出してるかも」

「ググっても出てこないんだよう」


 注がれたワインをすかさずのどに流し込む。

 妄想を肴にお酒の進む夜である。


 私は更に、その「理想の本屋さん」の細かい設定を語り出す。


「お客さんはね、事前にお店のオーナーにアンケートを提出するんだよ。

今までの読書歴とか、好きな作家、ジャンル、思い出の一冊とか、無人島に持っていきたい一冊とか、いーっぱい書いて。

それを踏まえて、オーナーが本の品揃えを決めてくれるわけ。

それで自分の好きな本ばっかり集められた、理想の本屋さんの出来上がり、招待状が届くんだ」

「たった一人のお客さんのための、一日限りの夢の本屋さんってわけだね」


 友人はうなずきながら言う。


「アンケートを送ると、その人へのおすすめを選書してくれる本屋さんっていうのはあるけどね。

お店の品揃え丸ごとっていうのは、聞いたことないかな」

「でしょー。めちゃくちゃ夢があると思うんだよねー」

「でも、本屋さんなんだから、お客さんは何か買うんでしょ? 

店員さんがいなかったら、お会計どうするの?」

「それねぇ……欲しい本と交換で、本棚に代金を置いていく、とか……でも、なんか現金って夢がないよねぇ。

せっかくお店が非日常的空間になってるんだからさ、それを壊したくはないよねぇ。

かといって、電子マネーもなぁ、なんかなぁ」


 私は口の中で、ごにょごにょと案をこねくり回す。

 酔った頭でアイディアをひねり出そうとする私を横目に、友人は自分のグラスにも一杯を注ぐ。


「そうだ、いっそのこと、その本屋さんの本は、一冊だけ無償で持って帰っていいっていうのはどうだろう。

夢のような時間のおみやげに、どれでも好きなものを一冊だけ……その一冊を選ぶのに悩む時間がまた、楽しいんだよねぇ。

それか、自分の手持ちの一冊と交換するとか。

本と本の等価交換。

そして、その本がまた、別のお客さんのための本棚に並んだりするんだよー。

うわー、夢が広がるー」


 広がりまくる夢、もとい妄想の楽しさに、私のうきうきは止まらない。


 理想の本屋さんを思い描いてにやにやと締まりのない笑みを浮かべる私に向かって、友人は至極冷静な調子で言う。


「もうそこまで具体的にイメージできるんならさ」


 くい、とグラスを傾けて、中身をすっかり飲み干してみせると、


「自分で作っちゃうのがいいじゃない?」


 そう言って、友人は本気か冗談かわからない顔をして笑った。


 アルコールが回りきった頭の片すみで、それもいいな、と私は調子よく思っていた。


 出資者募集。


 なんちゃって。






               了

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理想の本屋さん 宮条 優樹 @ym-2015

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