あまやどり

鱗青

あまやどり

 雨ね。降ってるわ…。

 空気の湿り気、雨粒に打たれた地面の発する苔と微生物の匂い…だけではなく、私のいる奥の場所まで音が届くもの。

「おや、久しぶりだね」

 そう言う貴方も。どうしたの?ずっと人気者だったのに、こんなところで会うなんて。

 あら。いやね私ったら、貴方と違ってお化粧もしてないわ。

「よしてくれ、俺の人気なんざとうの昔に枯れ果てたよ?映画が一本作られただけで。それに俺と違って君は"中身で勝負"タイプだろ?」

 それでも…いいじゃない。誰かの記憶に残るのなら。しかも映像よ?

「あー、映画化自体はまあ…満更でもなかったけどさ。あの監督は食わせ者だったねえ。勝手に脚本ストーリー改変しやがったんだぜ」

 まあ。それは知らなかったわ。ごめんなさい、そんな非道ひどいことをされていたのね。

「君が落ち込む事じゃないさ。俺も別段、恨んじゃいない。結果的に原作のファンも増えたんだ」

 そう…

 …。

「で、君の方は?前に会った時は確か小さな喫茶店で、女の子と一緒だったよね?彼女はどうしてるの?」

 …死んだわ。

「あ。…あ、ああ…。そうだったのか」

 …そうね。貴方に聞いてもらうのもいいかもしれない。あの子はあの頃は元気だったんだけど、しばらくして病気になったの。

 そう、少しぼやけていた記憶がクリアになってきた。四十九日の間、狭い空間に閉じ込められていたから…

 初めてあの子に会ったのは、やっぱりこんな天気だった。

 私もまだ駆け出しで、鼻っ柱ばかり上を向いた身の程知らず。けれどなかなか選ばれなくて、表面は強がってはいても内心かなりめげていたの。

 そんな時よ。あの子が店に入ってきたの。…多分雨宿りするだけだったのでしょうね。傘を後ろ手に持って、店の中をぶらぶら。

 あの子はとても印象的だったの。癖っ毛の前髪におしゃまな髪留めだけの、ワンピースの女の子。小学校の高学年くらいで、もうお姫様に憧れる歳ではないけれどまだまだ夢を散りばめたような眼差しで。

 だから私、他の仲間より少しだけ前に出たわ。

 そしたらあの子、私を選んでくれたの。

 それから…長いこと一緒にいたわ。途中、家族の世話のために忙しい時期は、私は構ってもらえなかった。でも分かってたから。あの子の選んだ男の人はいつもいつでも、私なんぞにかまけているなんて時間を浪費するだけだー!…ってお叱言こごとばかりだったから。

 …でもね。最後のときを迎えるまで、あの子は私をともにしてくれた。それから…暗くなって、気がついたらここにいたの。

 あら、うふふ。

 勘違いは願い下げるわ。私はね、幸せだったの。掛け値なしに。いまは違うけれど。たとえこの世に取り残されてもね。そもそも私達ってそういうものなのだし。そう気付かせてくれたのだから、あの子は私にとって幸せをくれた恩人よ…

「君はそれで満足なんだね?それにしてもその男、暴論家だな!俺達がいなけりゃあいつらの生活とか人生がどんなに味気なくなるか分かっちゃいないんだ…おっと、口を慎もうかな」

 あら、誰か来たのね?

 そうね。私も貴方の邪魔にならないよう静かにしているわ。いいの、お化粧もない私に注意を向けるとは期待していないから…

「───…だからさぁ、聞いたこともないってば。文学部ならともかく私、理系コースなんだよ?」

「つっても『こころ』も通じないのは日本人としてどうなんだよ?漱石ソーセキだぜ、夏目漱石!」

「意味分かんない。アレでしょ?アクタガワシショーとかナオキシショーてやつ。私ハリウッドが好きだから、文学とかシラン、シラン」

「シショーじゃねえし、もう色々と罰当たりだな…おっ、これなら知ってるだろ?」

 あら、やっぱり貴方を手に取るじゃない。ええ、ええ、分かっているわ。ここが正念場よ。襟を正して、貴方のそのお化粧が天井のライトを反射するよう角度をつけて。頑張って!

「ン〜?…あ!去年映画になったやつじゃん!それ買お!面白そう!まだ表紙もちゃんとあるしあんまページ焼けてないし、表紙も綺麗にしてあんじゃん?そんでさ、読んだらメルカリで売ろう」

「お前、ほんっと現金なやつだな…ちゃんと最後まで読めよ」

 彼らは去っていく。私には見向きもしない。若い男の子の方はを優しく手挟み、女の子の方は男の子のもう片方の腕にぶら下がるように甘えている。

 話し相手がまた、いなくなっちゃったわね…

 しばらくの静寂と空白。

「そっちの見せてよ、平積みのぉー、一番いっちゃん上。アタシ手が届かないからさ」

 誰?高い声。その発される位置は、低いみたいだけど…

「あー!これこれ!やっと見つけた!婆ちゃんの宝物!表紙ないから逆に分かったわー」

 男の子のように乱暴な話しかた。真っ赤なランドセルを背負う女の子が、力加減を一切しないで私を掴み、不躾ぶしつけにからだを開いて中身を確かめている。

 でも…ああ、なんてこと。

 栗色の髪、透明な湖の底の色をした瞳、口の下にある小さな黒子───全部、かつて私が見ていたものと同じ!

 貴女は、あの子の血縁なのね。

「お嬢ちゃん、これはちょっと難しいよ?中学生…いや高校生が習う漢字がいっぱいだ」

 ここのあるじが現れた。エプロンの前を大きなお腹で膨らました青年。

「そんなん別に関係ねーし。アタシが欲しいから買うんだし。それにバカじゃねーんだから辞書ぐらい引けるっつの」

 くす、と笑みがこぼれる。…こんな感情も、何年ぶりかしら?

「婆ちゃん病院でもずっとこれ読んでたんだ。もちろん中身は暗記してるぐらいだっつってたけどさ。なんか、そーいうの、大事にしたいし…父ちゃん、おかんに入れときゃよかった、今更捨てるのもイヤだつって、勝手に売っちゃってさ。あー早く見つけられてよかった!ねオッチャンこれいくら?」

「誰がオッチャンだ、僕はまだ二十代だぞ!…うーん、そいつは発行部数のそもそも少ない詩人の初版だし…五万円かな」

「え〜⁉︎高すぎない⁉︎ボッてる‼︎」

「こういうのは需要と供給なんだよ。じゃあ大まけに、まけて…」

「まけて…?」

 ゴクリという唾を飲む音。

 諦めないで!私は心から願い、呟く。もしここを出ていけるのなら、私は、あの子の名残を面影に映す貴女の供になりたい…

「───五百円!これ以下はまからないな」

「っしゃ買った!」

 サービスだと言って、店主さんは私にお化粧までしてくれた。

「カバーつけてくれてサンキュ!オッチャン見かけよりも良い人な!また来るわ」

「だからオッチャンじゃないってば…気をつけて帰りなよ」

 店主さん。貴方、無精髭なんかおやめなさいな。それと少し痩せるべきね。男振りは悪くないのだから、きっとモテるわよ。短い間だったけれど、お世話になりました。ありがとう。

 そして貴女。あの子のお孫さんかしら?私をわざわざ探しに来てくれて…手にしてくれてありがとう。貴女の年齢では、けして端金はしたがねではないでしょうに。

 ありがとう、ありがとう、ありがとう。

 私の知っていた声によく似ている、もっと幼い声がひさしの向こうの空を見上げて嬉しげに叫ぶ。

「雨、上がった!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あまやどり 鱗青 @ringsei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ