ラスプーチン、悩む。

増田朋美

ラスプーチン、悩む。

暖かく春の日差しが照って、もう春が来たと言ってもいいくらいの日であった。多分これから暖かくなって、どんどん良い天気になっていくんだろう。季節というのは、人間の考えている以上に、正確に変わっていくものだから。それは、嬉しいことでもあるけれど、何故か人間には嬉しいことばかりではなく、悲しいこともおきてしまうものである。

その日、道子がいつもどおり病院に出勤すると、上司の医者たちがなにか話していた。端くれの医者である道子は、まだ参加させて貰えないのであるが、なんだか他の医者たちはとてもうれしそうな顔をしている。

「ほら、小杉さんも、助手としてオペには入ってね。宜しく頼みますよ。」

上司の医者である、女性医師が、道子に言った。

「オペ?」

道子が思わず聞くと、

「そうです。なんでも、成功したら、この病院も、また昔のように人気病院に戻れるって、先生方は大張り切りです。」

と、看護師が呆れたように言った。

「一体何があったのよ。」

道子が聞くと、

「小杉さん知らないんですか?なんでも、整体肺移植を希望する患者さんが、来たんですって。いま、医療コーディネーターさんと、須田先生が、話してる。」

と、看護師が言った。

「そうなんですか。で、患者はどんな方で、ドナーになる人物は誰ですか?ご家族の方ですか?」

道子がそう言うと、別の医師が、その患者さんのカルテをちらりと見せて、

「名前は、田中綾子さん。21歳。ドナーになってくれる人物は、田中綾子さんのお姉さんで、田中絵理子さん。23歳。幸い、ドナーは一人でも大丈夫だそうです。」

と、道子に説明した。田中綾子という人物の名前を聞いたことは無いが、きっとふーんそうと答えるだけでは、いけないだろうなと思われる。

「そうですか、若い人で良かったですね。ドナーになってくれるお姉さんも若い人で良かった。それなら、うまく行きそうですね。ドナーがお年を召していたとか、レシピエントがえらく弱っていたとかだったら、大変なことになるかもしれませんし。とりあえず、第一関門は突破できたと思います。」

道子は、医療従事者らしい事を言った。

「まもなく、田中綾子さんのご家族が、院長室に来られます。小杉先生も、見学にいらしたらいかがですか?まだお若くて経験が浅いんだし、たくさん見学したほうが、いいのでは無いかしら?」

中年の看護師に言われて、道子は、あまり乗り気ではなかったけれど、それならわかりましたといった。確かに患者さんを診察して薬を出すだけが医者というわけでもない。そうなることを考えて、道子は、同席させてもらうことにした。

道子は、他の医者と一緒に、院長室に行った。患者である田中綾子さんは、もう集中治療室に入っているという。確かに別の人の臓器を入れ替えなければならないのだから、相当重症であることは伺いなかった。

「この度は、本当にありがとうございます。」

院長室に入ると、多分、田中綾子さんのお母さんだろう。中年の女性が、深々と頭を下げた。隣にいる若い女性が、多分田中綾子さんのお姉さんで、田中絵理子さんだろう。でも、彼女の表情は、なにか複雑なものを持っているような、そんな感じがした。

「いえいえ。すぐに決断されて頂いてありがとうございました。お姉さんが、すぐに、ドナーになると名乗り出てくださって、綾子さんは喜んでくれていると思いますよ。」

院長先生はそういった。そして、こちらの医師が移植手術を行いますと言って、道子の隣にいた女性医師を紹介した。確かに、優秀な医師として、テレビに出たこともある女性医師だから、きっと、移植手術も難なくこなせるんだろうなと道子は思った。

「ありがとうございます。本当に綾子を助けてくれるなんて、本当に嬉しいです。綾子も、きっと喜ぶと思います。」

お母さんはそう言っているが、隣にいる絵理子さんは、あまり嬉しそうではなかった。確かに、移植手術というものは、健康な人の体の一部を取り払うものでもあるので、不安になることもあるのではないかと道子は思った。

それから院長先生と、綾子さんのお母さんは、生体肺移植の手術の進め方などを話していた。道子も、真剣になってそれを聞いていた。道子にしてみれば、この病院が臓器移植をやっていることは知っていたけれど、まさか希望する患者が現れたというケースは初めてであったから、道子も緊張した。

「それでは、25日に手術しますので、宜しくおねがいします。ドナーである、田中絵理子さんも、よろしくおねがいしますね。」

「はい。こちらこそ、綾子が助かってくれるものであれば、本当に嬉しいです。よろしくおねがいします。」

お母さんと、他の医者たちは、みんなにこやかにしているのであるが、お姉さんの絵理子さんは、そのような顔をしていなかった。とりあえず、院長室から出て、道子たちはそれぞれの持場へ戻っていったが、その途中、待合室で、絵理子さんが、お母さんにこう言っているのが聞こえてきた。

「お母さん。私、どうしてもドナーにならないとだめなの?」

「何を言ってるの。適合するのは絵理子しかいないのよ。綾子を助けるつもりで、一役買って上げるといったのはあなたでしょ。」

お母さんは、疲れた様子でそう言っている。

「そうだけど、でも、私だって、肺の20%は、機能を失うって、先生が言ってたから。」

絵理子さんは、そんなことをいい出した。

「そんな事言っていられないでしょ。今は綾子を助けるために家族が一丸となって、なんとかしなければいけないのよ!」

お母さんがそう言うと、

「でも、私だって、今まで通り健康な体にはもうなれないじゃない。妹のために肺の一部を取ったなんて言ったら、もう生活できなくなるかもしれないし、恋愛も結婚もできなくなるかもしれない。それは、お母さんが保証してくれるの?そんな事無いでしょう?私はただ、綾子のために、自分のことを犠牲にしなければならないの?それって変じゃない?妹のために、私がなんで、犠牲にならなければならないのよ!」

と絵理子さんはそういい出した。

「何を言っているの!綾子のためなのよ。そのためには絵理子しか提供できる人はいないのよ!それなのに、今更嫌だなんて、言うもんじゃないわよ!」

お母さんはそう言っている。きっと綾子さんの事で手一杯で、絵理子さんのことを考えてはいられないんだなと道子は思った。

「大丈夫、たった20%ってお母さんは言うけど、それがどれだけ辛いものになるか、お母さんは考えたこと無いじゃない。それに、私が、一生懸命勉強しても何も褒めてくれなかったくせに、綾子は体が弱かったから、何でも偉い偉いってなって、そんなの不公平よ!たった、20%、たった20%、そればっかりお母さんは言って。私の事なんて何も考えてくれることは無いじゃない!」

絵理子さんがそう言うと、お母さんは彼女を平手打ちした。

「なんで、私は、そういうふうに普通の生活が持てないのかしらね。私は、高望みをしてるわけじゃない。私だって、クラスの同級生がしてもらっているように、色んなところに連れて行ってもらったり、何処かで習い事してみたりしてみたかった。それなのにうちは、みんな綾子が体調が悪いからって言って、みんな綾子にあわせて動いてた。私だって、友達と遊びたくてもキャンセルしなければならないことだってたくさんあった。それなのに、綾子から直接お礼をされたことも無いし、お母さんだって私の方を向いてくれたことは無いじゃない。挙句の果てに、綾子が死ぬかもしれないから、私の臓器をただで出せって!は!笑わせるんじゃないわよ。私はどれだけ綾子の犠牲になればいいと思ってるのよ!」

お母さんは、それにどう答えていいかわからず、泣き出してしまった。多分お母さんもお母さんで、絵理子さんのことなど考える暇もなかったのだろう。確かに、生体肺移植のために肺を提供すると、肺機能の20%は失われるという。それがどれくらい不自由になるのかわからないけど、少なくとも、健康なときと同じように生活できないのは確かでもある。お医者さんたちは、20%なんて大したこと無い、普通にスポーツもできるというけれど、不安になることは確かでもあるだろう。こういうことは、経験者に聞くのが一番なのかもしれないが、そのような経験を書いた本などはほとんど発売されていないので、不安になるばかりでもある。

道子はそうやって泣いているお母さんの横を黙って通り過ぎた。なにか言葉をかけてやりたかったけど、端くれの医者である自分がなにか言うのは、ちょっと申し訳ない気がしてしまった。こう言うとき、なにか慰めの言葉をかけてやれるようになるには、道子も医者として、経験を積むしか無いのだろう。

田中綾子さんは、幸い、容態が急変することもなく、静かに過ごしていてくれたので、当直の医師を残して、道子たちは自宅に帰ることになった。当直の医師は、道子よりも年配の、経験豊富な医師が選ばれた。道子は、廊下を歩きながら、当直の看護師が喋っていることを聞いていた。それによると田中綾子さんの入院費を稼ぐために、お母さんが、親戚一同を物乞い見たいに回ったとか、そういうことを看護師は話していた。それに、綾子さんという人は、正確はものすごく優しかったというが、学校では成績の悪い弱々しい女性だったので、よく学校から呼び出されたこともあり、お母さんは、綾子さんが体が悪くて、宿題をしなかった理由を先生に説明しに学校へ言っていたという。確かに、それはある意味では母親の鏡のような行為でもあるが、姉の絵理子さんにとっては、嫌なことになるのかもしれなかった。

道子が、病院を出て、道路を歩くと、まだ風が冷たくて寒かった。流石に春になったと言っても、まだまだ風が吹いて寒いのだった。完全に暖かくなるには、時間がかかる。道子は、コートの襟を立てて、寒さを防ぎながら、自宅にまっすぐ帰る気がしなくて、別の方向へ向かってあるき始めた。

そのころ、製鉄所では、由紀子と杉ちゃんが、水穂さんの世話をしていた。また、水穂さんは、いつもの通り、ご飯を食べないで、無理やり食べさせようとすれば、咳き込んで吐いてしまうのだ。それには、咳と一緒に、赤い液体もでる。それのせいで畳が汚れて、畳の張替え代がたまらないというだけではなく、もっと深刻な内容を含んでいた。由紀子も杉ちゃんもああほらほらと言って、口元を拭き取ってやるのであるが、それもかなりなれている人でないとできない動作だと思われた。

「こんばんは。」

道子は、そう言いながら、製鉄所の中へ入った。誰も応対しなかったので、道子は勝手に入って四畳半へ行った。そういうふうに上がり框が無い玄関なので、誰でも気軽に入れてしまうのだ。道子がこんばんはと言いながら、部屋に入って行くと、ちょうど、水穂さんが、由紀子に急かされて、鎮血の薬を飲んだところだった。畳は、水穂さんが吐いた血液でえらく汚れていて、これでは、畳の張替え代が確かにかかるだろうなと思うのであった。

「あーあ、またやったのね。最近というか、いつもこんなふうに発作を起こしてるの?」

道子が杉ちゃんに聞くと、

「いつもというか、ほぼ毎日だよねえ。まあしょうがないといえばしょうがないんだろうが、でも、辛いよねえ。」

杉ちゃんは苦笑いして言った。それと同時に由紀子が、水穂さんの体をそっと布団の上に寝かせてやって、口元を、濡れ雑巾で丁寧に拭いてやった。そして、水穂さんに優しく毛布をかけてやった。

「あーあ、いいなあ。そうやって、由紀子さんから愛されているし、杉ちゃんが世話をしてくれるから、水穂さんはいきていられるのよね。本当は、水穂さんのほうが、色んな人から必要とされているんじゃないかしら。他に、水穂さんに助けてもらったひとは、いっぱいいるんじゃないの?」

道子は、いきなりそういうことをいい始めた。

「お前さん何をしに来たんだよ。なんかラスプーチンらしくなくて、すごい悩んでいるみたいだったけど?」

杉ちゃんに言われて、道子は今日あったことを話してみようか迷ってしまった。

「なにか悩みがあるんだったら、なんでも話しちまえよ。体に溜め込んで置くのが一番良くないって知っているのは、お前さんたち、医者でしょ?」

「そうねえ。」

道子は、大きなため息を着いた。

「じゃあ、なにかあったのか、話して見てくれるか。僕、全部聞かないとだめな性分だもんでさ。なんでも話してくれないと、困ってしまうので、はじめから終わりまでちゃんと聞かせてね。」

杉ちゃんに言われて、道子は、そうねえと言った。

「まあ、今日ねえ、生体肺移植って知ってるかしら。それを希望する患者さんが来たのよ。まだ若い女性で、お母さんでは適合しないから、お姉さんにドナーになってもらって、それでうまくいくみたいだったんだけど、やっぱりねえ、今までと違う生活になるというのは、不安なでしょうね。お姉さんは、肺機能が失われることを、不安がってたし、あまり存在感のある子ではなかったようで。お母さんは、色んな人の協力を得るためにお姉さんの不安は聞いてあげられなかったみたいで。まあ、必ず通らなければならない道かもしれないけど。でも、どうしても不安にはなるかもしれないでしょうね。」

「なるほど、そうなんか。」

杉ちゃんがすぐに相槌を打った。

「そういうことはよくあることとはいい難いね。まあ、しょうがないといえばしょうがないけど、若い女が、妹のために自分の体の一部を差し出すってのは、確かに抵抗があると思う。まあ、それはねえ。妹さんが助かるためには、そうしなくちゃいけないんだろうなと思うけど、、、。現代特有の、ものかなあ。」

「そうねえ。まあ、たしかに親御さんから見れば、大事な娘だし、お姉さんからしてみれば、たった一人の妹なんでしょうけど、でも、そうねえ。社会的に言ったら、果たしてどれだけ社会貢献しているのかしら。それだったら、水穂さんのほうがよっぽどすごいことしていると思う。本当は、水穂さんがレシピエントになってもらいたいわ。なんか知らないけど、世の中に取って、本当に必要場なひとは、どんどん亡くなって逝ってしまうっていう気がしないでも無いのよね。なんか、そういう気持ちは、不思議だわ。そういうところは、結局あたしたち医者でも、変えられないんだなって思っちゃうわ。」

道子は、思い切って考えていること全部を言った。

「まあなあ。そういうことは、なんだろう、メンデルの法則みたいに、色んなことがあるのかもしれないけどさ。結局、人間に変えられることって、一つも無いのかもしれないな。そんな気がするんだよ。人間なんて、大したことができるわけじゃない。最近それをよく感じるんだよね。」

杉ちゃんが道子の発言に、そう言った。そういう話に乗り気になって聞いてくれるのは、杉ちゃんだけでもあった。

それと同時に、女性の泣き声も聞こえてきた。泣いているのは由紀子であった。

「何だ、一体どうしたんだよ。泣かないでくれよ。」

杉ちゃんがそういうと、

「だって、普通の人は、そうやって、臓器移植までできてしまう世の中なのに、水穂さんは、何もできないんだもの。なんでそんなに不自由な世の中なんだろうって、私は悲しくなりますよ。なんで、水穂さんには、そういう治療をしてあげることができないんでしょうか?」

由紀子は涙をこぼして泣き出してしまった。

「それはもう、答えは決まってるじゃないか。誰だって、水穂さんみたいなやつに、自分の体の一部を出してやることなんてできないだろうよ。まあ、それに抵抗のない外国人とかそういう人であればまた別だと思うけど、それは違うよねえ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「あたしも、由紀子さんと同じ思いだわ。」

と、道子は、こればかりは、由紀子の発言を養護するように言った。

「水穂さんには、そういう治療を積極的に受けてもらいたい。それくらい、水穂さんは、必要とされている人だもの。」

道子がその水穂さんの方を見ると、水穂さんはスヤスヤ眠っていた。きっと鎮血の薬には、眠気をもたらす成分があったのだと思われる。水穂さんには先程の発言は聞かさないほうが良いと道子は思った。

「まあ、そういうことは、私はできないけれど、でも、なんか、今の世の中本当に必要とされている人が、ちゃんと医療を受けられなかったりする世の中でもあるのかな。だから、それはなんとかしないといけないと思ったわ。まあ、偉い政治家でもない限りできないかもしれないけどさ。少なくとも思い続けることは、できるんじゃないかしら。」

道子は、眠っている水穂さんを眺めながら、小さな声で言った。

「私はそれより、水穂さんがお医者さんに見てもらえることを望んでいるだけで、世の中が変わってほしいとか、そういうことは一切望んでいません。」

由紀子が水穂さんの顔を見てそういうのだった。道子は、そういう彼女を見て、彼女のように、水穂さんを愛せることは、彼女もまた美しいのだと言うことを感じた。

「まあねえ。だけど、水穂さんが病院で見てもらえることは、国を変えるとかそういう事しないとだめじゃないの。日本にいる限り、見てなんか貰えないよ。まあ、仕方ないと思って、生活していくんじゃないんじゃないの?」

杉ちゃんが由紀子を励ますと、由紀子は、そうですねと小さい声で言った。道子も、本当は水穂さんに、生体肺移植を受けてもらいたいといいたかったがそれを言うのはやめておいた。

道子の勤めている病院では、生体肺移植手術が、大っぴらに行われた。興味深そうにテレビが入ったり、新聞が取材を申し込みに来たこともあったが、院長の指示で報道陣は一切病院の中には入らせないという事になった。道子は、そのほうが、患者さんも、ドナーになったお姉さんも安心して手術を受けられるのではないかと思った。





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