終の本屋

九十九

終の本屋

 その本屋には人が埋まっている。

 

 噂話が風に漂い、数日もすると地に落ちる。そうして囁かれなくなった噂話の中に一体どれだけ本当の話が含まれているのだろうか。

 少女は噂話を耳打ちする同い年の少女に笑みを返し、仕草を真似して人差し指を口の前へと持ってくる。噂話を終えた少女は嬉しそうに、内緒ね、とだけ告げて少女に手を振った。

 街の外れ、暗い路地裏を行くと小さな神社の前に寂れた本屋がある。そこには人が埋まっているの、と耳打ちした少女は言った。それが本当だとか嘘だとか、そんなものは耳打ちした少女には関係なく、ただ噂話を囁き合うのが楽しい様子の彼女に少女は微笑む。

 きっと彼女が、そうして多くの噂を囁き合う少女達が、噂の真偽を確かめる事なんて無い。噂話が噂話のまま飛び交う事の方がきっと彼女達にとっては魅力的な事なのだ。

 だからこのまま、噂話が噂話のまま通り過ぎる事を少女は願っている。本当の事なんて少女の表舞台には要らないのだ。

 

 少女は帰路に就く。何時もと同じ道のりを何時もと同じように一人で帰る。帰路の果てを誰にも知られてはいけないから、少女は何時も一人で帰っている。だからきっと少女の家の場所なんて、同い年の少女達は誰も知らない。

 少女の街の外れはがらんどうとしている。人もあまり住んではおらず、ただ空洞のまま残された建物が立っているだけだ。その中を少女は歩いて行く。幾つかの奥へと伸びる暗い路地裏の中、何時もの道へと少女は足を掛けると、そのまま体を暗がりの中に潜りこませた。  

 その本屋は小さな神社の前に立っていた。噂話には登場しない神社は、人の手から離れて荒れ果てている。少女は時折、この神社に手を加えて願い事をする。誰も噂の真偽を知らぬ様にと、誰にも見つからぬ様にと、願い事をする。

 少女はぎしぎしと鳴る扉を潜り抜けて、本屋の中へと足を踏み入れた。埃と木の匂いが漂う本屋の中は、古い本が所狭しと並べられている。

 人だけが居なくなったような本屋は静まり返り、少女が歩けば床がぎいぎいと鳴り響いた。

 少女は本を一つ手に取って開く。記された文章だけが昔から変わらない。大して目を通す事もせず、愛している、の言葉を指でなぞった少女は、本を棚の中へと仕舞った。

 本屋の中心、本に囲まれ僅かに開けたその場所で少女は足を止めると、そっとそこに寝転んだ。服が埃まみれになるのも構わず、床にぺったりと体を付ける。頬を床に付けると、少女は目を閉じた。

 冷たい床が少女の体温を吸い、温くなっていく。吸い込む空気は埃っぽいのに何処か鉄臭く少女は感じた。


 本屋の床の下、土の中には少女が兄と慕ったものが埋まっている。冷たくなって埋まっている。少女の手を離したその人を少女が息を止めて埋めたのだ。二人遊んだ秘密の本屋の底に少女は埋めたのだ。


 少女と兄は血が繋がってはいなかったけれど、それでも兄は少女の兄だった。優しくて、何時も少女の事を考えてくれた兄だった。だから少女も兄は一等大切にしたし、毎日兄の事を考えていた。

 兄は何時も優しかった。少女が寒いと言えば毛布で包んでくれたし、お腹が空いたと泣けば甘い飴をくれた。兄が貰い受けたと言う本屋に、特別な場所なのだと連れて来てくれたのも兄だ。

 何も持っていなかった少女は兄に全てを与えられた。寝る場所も、ご飯も、誰かの家族になる事も、全部全部兄から与えられた。ずっと一緒に居てくれる、そんな約束も少女は兄から与えられた。

 少女は兄を信じていた。彼だけは己を捨てないと信じていた。だって優しい兄だったから。少女の事を考えてくれる兄だったから。離れない約束すら与えてくれた兄だったから。少女は兄を信じていた。

 崩壊は容易いのだと、痛みは目に見えぬ所から突然現れるのだと、その時少女は初めて知った。

 雨が降っていた。何処にも行けないような雨が降っていた。そんな日に、少女の兄は呆気なく少女の手を離した。

 もういらない、と兄は言った。もうお前はいらないから、とそう言って本屋に少女を置き去りにしようとした。兄の手には銀色が握られていた。

 もしも、もしも兄が少女を埋めた後、それでも傍に居てくれたのなら少女はそれで良かった。刺されたって構わなかった。けれども兄は少女を置き去りにしようとした。埋めて、そうして別れようとした。

 回る世界に見える本屋の天井、床に押し倒された少女を兄は銀色で刺さなかった。ただじっと少女を見下ろしていた。

 お前を捨てるよ、と微笑まれた時、少女は銀色に手を伸ばしていた。

 兄の手から銀色を奪い取るのは思っていたよりもずっと簡単だった。呆気なくそれは少女の手に落っこちてきた。銀色を自身の手中に収めて、そうして兄の身体に突き刺す。兄の身体は少女の元へ倒れ込み、一層銀色が兄の中に刺さった。

 兄が事切れるまでは時間があった。兄はか細く息をして、自身を抱きしめる少女の事をずっと見ていた。兄は少女に何も告げ無かった。ただ息を止める前に、少女に飴玉を一つくれた。

 からころと飴玉を口の中で転がしながら、少女は兄を埋めていた。兄によって本屋の中心に掘られた穴は、兄を埋めるとまるでそれが正しいみたいにぴったりと当て嵌まった。幼い少女にとって大きな兄は重かったけれど、最初から死ぬのは兄だったみたいに色々な物が用意されていたから、一晩の内には兄を埋める事が出来た。

 兄を埋め終わる頃には口の中から兄に貰った飴は消えていた。


 少女は床を撫でる。そんな事をしても兄の輪郭も温度も分からないのを分かっていて、少女は床を撫でる。

 兄を埋めた時、もうこれで離れる事はないのだと安堵した。ずっと一緒に居たかった温かいものが、離れてしまうのなら冷たくても良いと思った。

 それでも時々思う。あの時、少女を捨てると言った兄にも何かしらの理由があって、兄を自由にさせてあげていたらどうなっていたのだろうと。兄は兄の為だけの人生が得られただろうか。そんな事は耐えられないのだけれど、それでも時々思うのだ。離れた先にこそ希望があったのだろうかと。

 けれどもそんな未来は訪れない。そんな未来は耐えられない。少女は与えてくれた兄から離れられない。だから少女は兄を埋めたのだ。秘密の本屋の底に、愛の言葉も呪いの言葉も羅列する文学の下に、兄を埋めたのだ。

 少女はこの本屋の底が誰にも知られない様にと願う。知られてしまえば兄は連れて行かれてしまうから、誰にも知られぬ様に、誰も噂の真偽を知らぬままでいる様に願う。

 少女はこの先もずっと兄と離れる事はできない。

 

 ふと思い出すのは、本屋を特別なのだと話してくれた兄の横顔だ。

 ここはお前と俺の終になる、と嬉しそうに話していた兄は、何を思っていたのだろうか。



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終の本屋 九十九 @chimaira

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