ほんの、すこしだけ

 そして。

 わたしは、恭くんの足元におすわりしているように言われて。

 恭くんはソファに座って、わたしが本屋さんで買ってきた本を、開いている。


「面白そう。ペットプレイの作品って、こんなにあるんだ」


 恭くんはページを繰り始める。

 熱中して……読んでいるけど。


 恭くんにとってそれは、まるで日常の、……まったりとした時間で。


 わたしは、袋からはみ出した、大好きな推し作家さんの新刊のほうが……気になる。

 うずうずする……気になる……読みたくて……読みたくて……。


 わたしが、うずうずしているあいだに、恭くんはペットプレイの漫画を一冊読み終えてしまう。


「面白かった、なるほどこういうのもありだな……」

「……わん」


 わたしは、小声で恭くんを呼んだ。


「なに? えみ」


 どうすれば、伝わるのかな。

 言葉を使ってはいけなくて。


 つやつや光り輝いて見える新刊と、恭くんを、交互に見た。


「ああ。本、読みたいの?」

「――わ、わん!」


 いいの?

 一筋の希望を抱いたけれど――。


「昔から、本、好きだったもんね。……犬に、好きな本を読む時間なんてあるわけもないのに」


 恭くんは――はじめて、わたしの頭を撫でる。

 やわらかく。……やわらかく。


「俺だって、小学校の卒業式前にさらわれて、二年以上。小説を読む時間も漫画を読む時間も、自分の好きなことをできる時間なんてとにかく何にもなかったんだから。ね? わかるよね、えみ?」


 ……なにを、期待していたのだろう。

 当たり前だ。わたしのほうが、ちょっとやっぱり、おかしかった。

 本当に、どうして。家で、本を読めると、根拠もなく思って帰ってきてしまったのだろう。


 そうだよね。恭くんだって――あのころ、そんな自由な時間、なかったんだから。


「がまんして」


 こんどは、わたしの番。

 きっと、ただそれだけのこと。


「……わん」


 諦めて、恭くんを見上げてそう言うと――恭くんは漫画の二巻を読みつつも、わたしの頭を撫でてくれた。


 ……頭を、撫でられると。

 理性とは別の、どこか、もっと奥深いところが。

 うれしい。弾むかのように。どうしてだろう。……わたしは、犬なんかじゃないのに。


「これからは、勝手にお店に寄ったりしたら駄目だよ。買い物も俺の言う通りにして。えみのスマホにはGPSをつけるから。移動するたびちゃんと俺に報告してね。えみの持ち物は、四年間、俺が管理するから。早く引っ越しもしようね。同じ家に住もう。都合がいいから大学では付き合ってることにしようか。結婚前提の同棲みたいな体で」


 壊れている、この男の子は。

 だけど、わたしたちが、……わたしが壊した男の子。


 本屋さんで買った本は。もちろん。……読みたかったけど。


「わん」


 恭くんの言ったことに。

 はい、と返事するつもりで、わたしは――犬の、声を出した。


 恭くんは、こちらに視線を向ける。

 相変わらずの、無表情だけれど――その目は、すこしだけ穏やかに見えた。


 ここから始まる日常は、きっと間違いなく地獄なんだろうけれど――。

 もしかしたら。

 昔いた地獄より、ほんのすこしは、ましな地獄なのかもしれない。


 お兄ちゃんに怒鳴られて。お兄ちゃんに殴られて。お兄ちゃんに命令されて。

 何の罪もない男の子を、鞭で叩いて、蹴って。

 もっと、もっと。思い出したくもないくらい。ひどいこと、いっぱいして……。


 あのころには、頭を撫でてくれるひとなんて、いなかったから。

 もしかしたら、だから、そのぶんだけ――ほんの、すこしだけ。


「えみ、いいこだね」


 確信を強めて、恐る恐る、すがるように、わたしは彼の膝にそっと頭を載せてみた。

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えみ、おすわり。 ~加害者少女は犬になる~ 柳なつき @natsuki0710

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