二夜目
つるよしの
「これから」
ホテルの窓から降りしきる雪が見える。
それを見返す度、ヒモナスはその名の通り冬が永遠に続く惑星なのだ、ということを思い知らされる。軍隊最初の五年間を俺はここで過ごしたけれど、はじめて新兵専用の輸送艦でこの星に降り立ったときの記憶は、いまも鮮やかだ。よりによって軍人としてのキャリアを、こんな陰鬱な惑星で始めるのかと辟易したものだ。
そして任期が切れて、別の任地に移動になったときの気分も。五年過ごして少しは愛着も生まれつつあった惑星だったが、また命令が下らない限りは、二度と俺はこの星を訪れないだろうな、というものだった。
――だというのに。
俺はテーブルに置かれたコーヒーカップからゆたう湯気に顎を浸しながら、自分の人生の皮肉さに、ふと唇を歪めた。
どうしたことか、いま、俺はヒモナスにいて。それも今度はスノウという少女と降り立って。そして到着した途端、すぐに彼女と引き離されたと思えば、旧友から手酷い裏切りの真相を聞かされて。殺されるつもりで連れて行かれた雪原で、逆に彼を殺して。それから――。
――それからスノウと、繋がって。
あのとき、救助がそのあと来て、俺たちが生還できると知っていても、俺はスノウを抱いたのだろうか、と自問自答する。あれは、もうあとは死ぬばかりと思い詰めた衝動からの行為ではなかったか、と。
しかし、いや、と俺はすぐにそれを頭の中で否定した。そうであってもなくとも、俺はあのときスノウが欲しかったのだ。なぜなら、彼女を愛しているから。そして彼女に、愛しているといちばん強く、確かに伝える方法として、俺は交わることを選んだのだ。
そう思うほどに、俺のなかではスノウに対する想いが熱く疼く。さらには、彼女の肌の熱を思い返す。あの熱に包まれたとき、スノウには気付かれなかったと思いたいが、俺は密かに涙した。心を凍らせ、命を賭けて戦ってきたというのに、裏切られ、全てを奪われた俺にも、まだ彼女がいた。それが俺の目頭を熱くさせた。
この世を支配する神は残酷この上ないが、それでも救いはここにあったのだ。
あの真っ暗な車中で彼女を貪るように抱きながら、俺が考えていたのは、そんなことだった。
そこまで思いを巡らせていたとき、唐突に部屋のインターホンが鳴った。スノウが病院から帰ってきたのかと思い、俺は期待に心を躍らせてモニターを見る。だが、そこに写っていたのは、あの雪原から俺たちを助け出した背の高い男だった。
「イヴァン・ドヴォルグ。君にはまだ名前を名乗っていなかったな。私はスミス・ハーバル。身分はこの間君に告げたように、国際軍事法廷の高等検察官だ。君がこれから証人を務める、疎開船撃墜事件を担当している。また、それだけでなく、今後の君の身辺に関しても手広く配慮するよう、命令を受けている」
ハーバルと名乗った灰色の髪の長身の男は、部屋に入ると、俺にそう落ち着いた口調で言った。だが、そこには、俺がいちばん知りたい情報が何も含まれていなくて、俺は多少苛つきながら言葉を返す。
「スノウはいつ、病院から戻ってくるんだ。もう引き離されて二日だぞ」
「慌てるな、ドヴォルグ。彼女が精密検査を受けに入院している病院から先ほど報告があった。右手の凍傷を除けば、すべて健康に問題なし、とのことだ。今日の夜にはこのホテルに戻ってくる。それに伴い、部屋もこのシングルルームからもっと広い部屋に移れるよう手配したところだ。これは彼女の分も含めた、当座の衣服と日用品だ」
ハーバルはそう言いながら、手にしてた大きなバスケットを俺に手渡した。中を覗けば、なるほど、彼の言ったように、数日分の俺とスノウの下着を含めた衣服、それに髭剃りや歯ブラシといった細々とした生活用品が入っている。しかし、俺の目はそのなかに
瞬時に固まった俺の表情を見ながら、ハーバルは面白くもなさそうな淡々とした口調で、語を継ぐ。
「君たちの
「……」
俺は返す言葉もなく籠の中の
そこには、いくつかの避妊具が、さりげなく置かれていた。俺の顔が赤くなる。赤くなりつつも、俺はちいさな声で抗弁した。
「……そりゃ、そうだが、俺たちは別に、節操なく
「やりまくるつもりがあろうとなかろうと、これはいまの君たちに必要なものには違いないだろう? ドヴォルグ」
羞恥に声を潜めた俺をよそに、対する背広姿のハーバルは悠然としたものだ。彼は俺の顔を真っ正面から見据えると、子どもに言い聞かせるかのように訥々と話し始めた。
「いいか、ドヴォルグ。君と彼女のことは、良く把握している。君が彼女のことを真剣に愛しているのも分かっている。それについて異議を挟むつもりは私には、ない。だが君は、まだ妻を亡くして日も浅く、正式な死別による婚姻の解消も済んでいない状態だ。つまり再婚もままならない。そんな現状で彼女のことを妊娠させたらどうなる? 少しはそのことも考えて行動しろ」
「うっ……」
「まあ、あの雪原では死ぬか生きるかの瀬戸際だったから、分からぬこともない。しかし君は生還したんだ。そしてこれから君は、軍事裁判の証人を務める。裁判は短くても三年はかかるだろう。それまでの君と彼女の生活は、私が保証しよう。だが、君は亡くした妻子に関わる証言をしながら、彼女とすぐに再婚することに良心が耐えられるか? 君はそんな器用な男ではないだろう」
ハーバルはそこまで一気に言葉を継ぐと、
「ドヴォルグ。まずは時を待て。裁判が結審したあとの、君と彼女の身柄の自由は保証する。そうすれば晴れて彼女と結ばれる日も来るだろう。だが、今は慎重に行動してくれ。それが君、ひいては彼女のためにもなるはずだ。せっかくあの雪のなかから、ふたり、生き延びたんだ。それを無にしないためにも、まずは、彼女を大切にしろ」
そしてハーバルはその長身を翻し、部屋を出て行った。
ドアを閉める寸前、肩越しに振り向き、俺にこんな一言を投げかけてから。
「君はそれが出来る男だと、私は信じている」
その夜、俺がシングルルームから新しい広い部屋に移って、ハーバルから手渡されたあれこれの日常品をクローゼットに仕舞っているところに、退院したスノウが帰ってきた。
「イヴァン!」
短い旅の間にすっかり見慣れた艶やかな黒髪と、輝く黒い瞳が、俺の瞳に躍る。それに、心から嬉しそうな満面の笑みも。肌はあいかわず透き通るように白かったが、頬は健康的な薔薇色に染まっていて、俺はまず、何よりそれに安堵した。スノウがそんな俺の胸に飛び込んでくる。俺は杖で身体を支えながら、なんとか倒れずに片手でその肢体を抱き留めた。
ここ二日間、何度も夢想した熱が、俺の身体に注ぎ込む。たった二日離れていただけだというのに、心を疼かせながら待ち望んでいた熱を抱きしめる。
何物にも代えがたい幸せに塗りつぶされていく意識の奥で、俺はこんな自分の声を聞く。
――ああ、俺は生きている。そして生ある限り、もう、彼女からは離れられないな。
その感慨に押し流されるように、俺は彼女をこれ以上無く強く抱きしめた。途端にスノウが俺の腕の中で悲鳴を上げる。
「イヴァン! イヴァン! ちょっと、痛い!」
「すまん、スノウ。君にやっと会えたのが、嬉しすぎて」
「それは私も同じよ! イヴァン、ずっとずっと、あなたに会いたかったわ!」
その声にスノウの黒い瞳を見れば、そこはうっすらと濡れている。だが、俺にはそれが歓喜の涙だとすぐに分かった。
「スノウ、身体はもう大丈夫か?」
「うん、右手の凍傷だけ、まだちょっと痛むんだけど、それ以外は問題なしよ。お医者様も太鼓判を押してくれたわ」
「それはよかった。やっぱり、若いだけはあるな」
「やだ、イヴァン、年寄りめいたこと言わないでよ。あなただって、まだまだ若いわ」
スノウが包帯を巻かれた右手で、俺の頬を撫でながら悪戯っぽく笑う。その表情がとてつもなく愛しく思えて、俺は彼女の唇を貪るように口づけた。
「あぁ……、イヴァ、ン……」
「スノウ、好きだ。愛してる、スノウ」
「イヴァ、ン。イヴ、ァン、私も、私も」
俺たちはお互いの名を途切れ途切れに呼び合いながら、角度と深さを変えて、キスを繰り返す。もう離さない、離れない、とばかりに。もっともそのことはもう、俺たちには口に出して言う必要のある言葉ではなかった。
やがて熱を持て余したふたつの身体が、もどかしいとばかりに、傍のベッドにもつれ合うように沈み込む。俺の身体の下になったスノウが、俺を求めるように、甘く息を弾ませる。俺もそれに応じようと彼女の胸元に手を伸ばす。
だが、そのとき、その日の昼のハーバルの言葉が、不意に胸に蘇った。
――いかん。
俺はおぼつかない身体を、ゆっくりとスノウの身体の上から引き離すと、ベッドの上に起き上がる。スノウの黒い瞳が驚いたように見開かれた。
「どうしたの? イヴァン」
「……いや、その」
「イヴァンも、ハーバル検察官に何か言われた?」
スノウのその言葉に、今度生きている左目を見開いたのは、俺だった。すると、スノウも乱れた黒髪を直しながら、ベッドの上にむくり、と起き上がった。そして、ふふっ、と笑う。
「分かっているわよ。イヴァン。私、あなたとそんな簡単に結婚できないってことは」
「あの野郎、君にまで釘を刺していやがったのか」
「いいのよ。そんなに怒らないで。あなたの口から言わせるのは酷だと思っての配慮でしょう。それに私、はっきり言われた方がいいし」
「スノウ」
「でもね、ハーバル検察官、私にこうも言ったのよ。イヴァンは私を生涯離すつもりはないだろうから、どうか、信じてやってくれ、待ってやってくれって。それも私に頭を下げて」
そのスノウの告白を聞いて、俺は深い嘆息を漏らさずにはいられなかった。
「あいつ、俺が格好つけるべきところを全部取っていったな……」
「そう言われればそうね。でも、私、そう言われるまでもなく、あなたを信じてるわ。あなたのプロポーズ、私、本当に嬉しかったの」
そう言うとスノウは俺の顔の前に、左手をそっ、とかざして見せた。
見れば、薬指には、俺の義眼の指輪が青く光っている。
それから、スノウは愛しげな目つきでそれに視線を投げながら、こう言葉を続けた。
「だからね、私、いくらだって待てるの。あなたのお嫁さんになること。数年くらい、わけないわ。いいえ、もっと長い時間がかかったとしても。だから、イヴァン。あなたは、あなたの責任をちゃんと、裁判で果たしてね」
「……スノウ」
俺は目の前でそう笑ってみせるスノウの笑顔が、これまでになく眩しくて、彼女の肩におずおずと両手を回す。そして彼女の黒髪に顔を埋めると、囁いた。
ちいさく、だが、ありったけの誠意と感謝を込めて。
「……ありがとう。ありがとう、スノウ」
「ふふ。くすぐったいわ、イヴァン。でも、しわくちゃのお婆さんになるまで待たせないでよね。それは、お願いしとく」
「ああ、スノウ。待っていてくれ。俺は君を必ず、妻にするから。必ず」
窓の外はもう闇に閉ざされて久しい。しんしんと冷える夜の空気が微かにざわめいて、雪がなおも降り続いていることを俺たちの肌に教えてくる。
「冷えるな」
それから、俺たちはどちらからともなく、再び抱き合いながらベッドに身を横たえた。俺はスノウの耳もとで呟く。
「今夜は、このままでいさせてくれ。何もせずに、ただ君とこうしていたい」
「そうね。私もそんな気分よ。このままで、いましょ」
「……車のなかでは、無理矢理、すまなかった。痛くなかったか」
「何言ってるの。無理矢理なんかじゃない、私、最高に幸せだったわ。でも……その、少し、痛かった、かも」
「そうか。これからはそうしないように、気をつける」
「ありがとう、イヴァン」
夜が更けていく。
俺たちふたりの二夜目が、じんわりと、やさしく、溶けてゆく。
二夜目 つるよしの @tsuru_yoshino
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