舌鼓は、本屋で

コノハナ ヨル

第1話

 大学を卒業するに伴い、僕は3年間した本屋でのアルバイトをやめることにした。それで、前々から気になっていた本屋の店主、虫本(むしもと)桂子さんを思い切って夕食に誘ってみることにした。まったく下心がないといえば嘘になる。だけど、虫本さんは俺より10は年上だし、ちょっと無理めなのもわかっている。ただ、最後に一度だけ食事を一緒にしてみたかった。


 僕が誘うと虫本さんは、え……と困惑したような声を出した。「どうしてもなの?」銀縁眼鏡の奥で、なにか不安があるように視線が揺れる。

「はい、卒業祝いに何でも言うこと聞いてくれるって言ったじゃないですか」

「そうはそうだけど……」

 いつもだったらこんな態度を取られたら引くところだが、最後のチャンスということもあって僕はグイグイいった。

 すると虫本さんは諦めたようで、息をひとつ吐くと、わかったわと小さく答えたのだった。



 最後のバイトの日。営業時間を過ぎ、店の片付けをしたあと、さあこれからディナーにと虫本さんを振り返ったら、彼女はレジ裏に置いてあった折り畳み式のテーブルを本屋の真ん中の開けているスペースに持っていて、デンッと開く。そして、ディナーの準備をするから手伝って、と僕に微笑んだ。

 そうか、思い出深いこの本屋でディナーをするんだ。普段は、なかで飲食する客に手厳しく注意する虫本さんも、今日は僕のために“特別”を許してくれているに違いない。そう思うと嬉しくなって、僕は虫本さんの指示通りにいそいそと動いた。

 向かい合わせに椅子を配置して、ランチョンマットと大きなお皿、ワイングラス、それにナイフとフォーク、スプーンを礼式に則って配置していく。

 でも料理は?そう疑問に思った瞬間、ピンポーン! Uber eatsの宅配が届いた。

 さすが虫本さん、手際が良い。感心しながら届いた食べ物をテーブルに置いたのだが、それはどうみても“一人前”しか無かった。あの、これ何かの間違い……そう戸惑う僕に虫本さんは

「大丈夫。似たようなもの食べるから」と言うと、本棚からいくつかの本を抜き取って、それを自分の皿の脇にポンポンとタワーのように重ねていった。そして優雅な身振りで椅子に座ると、体をひとゆすりして言った。


「さぁ始めましょうか」


 はじめは食前酒よね。虫本さんは、小さなグラスのひとつに先ほど届けられたばかりのワインを注ぐ。それを僕に渡してから自分のには、先ほどのタワーのてっぺんからオマル・ハイヤーム『ルバイヤート』の小さな豆本を取って入れた。カラン、と豆本の背についた飾りがガラスにあたり、氷みたいな音を立てる。「乾杯」赤い唇を美しく歪めて虫本さんがグラスを持ち上げるので、どういうことかわからない僕も雰囲気に飲まれて乾杯と自分のグラスを持ち上げ、一気に中身を飲み干した。甘くコクのある白ワインが僕の喉を通っている間、虫本さんはグラスに入れた豆本を同じく飲み込む。白い喉を豆本が四角い形を残しながらくだっていくのが見えた。夢みたいだ。もちろん悪い方の意味で。


 本を飲み込み終えて、長くほっそりした指で口元を拭った虫本さんは「わかったでしょ。あのね、私、主食が本なの」とはっきりとした口調で言ってきた。


 虫本さんが説明してくれたことによると、彼女は昔から口にできるものが本だけらしい。一般の子供が10倍粥とかそういうのをすすっている時期に、既に虫本さんは赤ずきんちゃんの絵本をミキサーで細かくして水と煮たものが大好物だったという。かわりに普通の食べ物はてんでダメで、先代、すなわち虫本さんのお父さんは娘のこの特殊食糧事情を鑑み、この本屋を立ち上げたというのだ。本屋という形式にすればいつでも新鮮な本をストックしておける。表向きは本屋だが、その実、ここは虫本さんの食糧庫なのだ。

「怖い?」そう聞く虫本さんに、僕はなぜだかわからないけれど「全然」と答えてしまった。たぶん、食前酒に酔い始めていたからに違いない。

 ともかく、そう答えてしまったから、僕らのディナーはそのまま続行となった。


 前菜は「デビルエッグ」という、固茹でにした卵を半分に切って黄身をいったん取り出し、それをマヨネーズとかその他もろもろ香辛料を混ぜて味付けして戻したものだった。それを食べる僕の前で、虫本さんは大藪 春彦『野獣死すべし』の単行本を手に持ってモグモグたべた。「だって“ハードボイルド”だし、これ。」そんなセリフを吐きながら。

 ついでスープ。僕の分は、深い飴色をしたコンソメスープだった。それを、丸いスプーンですくってひと匙ずつ口に運んでいる間に、虫本さんは太宰治『斜陽』をスプーンでグイグイくり抜いて、同じくひと匙ずつひらりひらりと口に運んでいく。ああ、もしかして冒頭があれだからか……。不思議なことに、虫本さんの手にかかると本はまるで本物の食べ物みたいにみえてきた。

 お次はメイン。僕のは厚切りステーキで、ゆうに500グラムはある大ぶりなもの。ミディアムに焼かれていて、ナイフを通すとじわっと赤い肉汁があふれ出た。

 こんな豪華なものいいんですか? と聞くと、虫本さんは3年間うちで頑張ってくれたお礼だからと、優しく笑う。その花が溢れるような笑顔のもとで、皿に置かれた京極夏彦『魍魎の匣』は、端っこからゴリゴリとステーキナイフで切り取られて、扇状的な赤い口紅の間に運ばれていった。うん、たしかに分厚いけどさ。あと血っていうか、ね。それもそこそこ出てくるけどさ。

 最後のデザートは、抹茶プリン。デザートスプーンに持ち替えた虫本さんは、森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』をすくっていく。「甘くて複雑な味。でもその全てを京都の抹茶がまとめ上げているわ」虫本さんは食べてるのが本なのにそんなことをブツブツ言いながら、高速で平らげていった。甘いものは別腹、というのは本に関しても同じなのかもしれない。


 ひととおり食べ終えて、虫本さんは僕に熱いコーヒーを一杯いれてくれた。それを口にしながら、今一度あたりを見回す。

 なるほどな、僕はこれをただの本だと思っていて、この場所は本屋だとばかり思っていたけど、それは浅はかな思い込みだったのかも知れない。居並ぶ本、本、本、それは食べ物。


 虫本さんは、サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』を、バケツみたいに大きなコーヒーカップにいれて飲もうとしている。


 “美味そうだな”


 あれ、今のは虫本さんが言ったのかな。

 それとも。


 新たな欲求が生まれつつあることを必死で否定しながら、僕はもう一口ボヤけた味のコーヒーを啜った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

舌鼓は、本屋で コノハナ ヨル @KONOHANA_YORU

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ