無名夜行 罪人たちの一夜

青波零也

罪人たちの一夜

 何か硬いものがぶつけられる音とともに、ディスプレイの視界が揺れる。街灯に照らされた石畳の上に、ぱたぱたと血が滴り落ちる。

 ああ、流れている血の色は赤いのか。この『異界』においても。足元に落ちるX自身の影が、どれだけ人の形からかけ離れていたとしても。

 Xの視線が持ち上げられる。目に入るのは、一様に顔を蒼白にしながらも、敵意や怒り、恐怖といった感情を込めた目でこちらを見据える人々。どうやら、彼らの手に握られた石の一つがXの頭を打ったらしい。異形の手で額を拭ってみせれば、怯えをあらわに一歩下がる者も多かった。

「逃げましょう」

 ぽつり、と。Xの低い声が告げる。声帯までは変容していないのか、それとも、Xが聴覚で認識しているつもりでも、実際の「声」は異なるものだったのか。どちらにせよ、少なくともその声はXの腕の中にいる少女に届いていたらしい。羊のような角を生やした少女はぱっと顔を上げ、「でも」と言いかける。

 逃げると言っても、どこに。Xには当然この『異界』の土地勘などない。

 逃げたところで追われるだけで、きりがない、と言ってしまえばそれまでだ。

 それでも、Xは改めてきっぱりと言うのだ。

「これでは、話もできません。行きましょう」

 毛とも羽ともつかないものに覆われた手を、少女に差し伸べる。無理やりにその手を取る、という選択肢はXにはなかったに違いない。そう――私が知る限り、Xはそういう人物だ。どこまでも、どこまでも。

 少女は躊躇いを見せながらも、恐る恐る痩せた手でXの手を掴む。Xはその手をそっと握り返すと、身を翻す。そして、降りかかる礫から少女を庇いながら、駆けてゆく。本来あり得ざる鉤爪が石畳を削る、嫌な音を立てながら。

 

 

 ――『異界』。

 ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、この世から見たあの世、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。それが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。

 だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。

 そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。

 もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言えない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。

 彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。

 寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚は私の前にあるディスプレイに、聴覚は横に設置されたスピーカーに繋がっている。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。

 だが、数多の『異界』のありさまはそれぞれであり、『異界』そのものがXの意識体に何らかの影響を与えることもある。まさしく今回の『異界』のように。

 Xに起こった異変は『異界』に降り立った瞬間から明らかだった。Xの視界が捉えたのは西洋風の、しかしどの国とも特定しがたい夜の町並み。ただ、その視界が妙に高いのが気になった。本来、Xの身長は一般成人男性としては平均的、もしくは少し低い程度だ。私と並んだ時に視線の高さがほぼ一致している、というのが私の認識。故に、町並みを見下ろすような視界になっているのは異様といえた。もちろんXがいるのは『異界』であり、建造物自体が『こちら側』のそれより小さな可能性もあった。

 ただ、それ以外にも異様な点がいくつも見受けられる。Xが視線を動かせば、普段はX自身のサンダル履きの足が目に入るはずなのだが、その代わりに石畳を踏んでいるのは、鉤爪を持つ、鳥を思わせる足だ。足元に落ちる影も、どうにも奇妙な形をしている。

 Xの意識体の姿は、基本的にはX自身が認識する「自己」に依存する。そして、自己を定義するのに肉体の存在は不可欠であり、つまり意識体の姿は『こちら側』の肉体と大きくはかけ離れることはない。かけ離れさせる方が難しい、と言うべきか。

 しかし、学校を思わせる『異界』では周囲に合わせて若い頃の姿を与えられる、など『異界』にXの意識体が影響されるケースは、今までにも何件か存在する。どのようなルールに基づいて意識体が変化しているのか、必ずしも理解できるわけではないというのが難点であり、今回の『異界』はまさしくそういう場所であった。

 とはいえ、Xはいくつもの『異界』を渡り歩いてきた経験もあり、多少のイレギュラーには動じなかった。自分の意識体が本来の姿とは異なっているらしいことを把握した後は、特にうろたえるような様子もなく、普段の通りに周囲の観測を始めた。『こちら側』はXの視覚と聴覚から得られる情報しか収集していない都合上、Xも意識的に周囲の状況を捉えようとしてくれる。

 しん、と静まり返った町並み。立ち並ぶ街灯こそあかあかと夜道を照らしているが、家々の扉は閉ざされ、窓には分厚いカーテンが引かれて光が漏れてくる様子もない。ただ、辺りを見渡していると、耳がわずかな音を捉えた。人の声だ。しかもその響きは怒号、というべきか。何やらものものしい気配だ。

 Xがかつかつと足音を立てながら――足の鉤爪が音を立てているらしい――声の方に向けて歩いていけば、やがて声がはっきり聞こえてくるようになってくる。

「薄汚い罪人が!」

「逃げるな!」

「町の汚点だ、早く消えてくれ!」

 私にも内容が把握できる、つまりXが意味を理解できる、声。それが、口々に何者かを罵っているのがわかる。それと共に、複数の靴が石畳を踏む激しい音も近づいてくる。

 その時だった。

「きゃっ」

 声と声の間に挟まる、小さな声。Xの視線が下に向けられると、目が、合った。

 この『異界』におけるXの腰程度の背丈の少女が、肩で息をしながら呆然とXを見上げている。少女、と一目でわかる程度には『こちら側』の人間と近しい姿をしているが、くしゃくしゃな髪の間からは羊のそれを思わせる立派な角が生えていて、すすけた色のスカートから覗くのも羊のそれに似た蹄を持つ脚だった。

 少女はXを見つめたまま口をぱくぱくさせている。その顔色は青ざめ、かわいそうなくらいに全身を震わせている。

 そんな顔をされるほど、奇怪かつ恐ろしげな見た目をしているのだろうか。そう思っている間にも足音は迫り、一拍の後には人々が家々の間の道を抜けて、Xの視界に現れ出た。手に石や棒を握る彼らの姿は『こちら側』の人間と何も変わらなかった。今のXや、その前に立つ少女のように、「人間らしからぬ」特徴を持ってはいないように、見える。

 少女同様、現れた人々もXの姿を目にした瞬間、言葉を失って青ざめ、硬直した。ただ、少女と異なっていたのは、そのうちの一人がすぐに悲鳴にも似た声をあげたことだった。

「……っ、し、知らないぞ、こんな罪人!」

「一体、どれだけの罪を重ねれば、こんな恐ろしい姿に……」

 姿。その言葉が妙に引っかかる。姿が、何か関係しているのか?

 人々の間に走る緊張、それから、滲み出すのは、恐怖だろうか。一つ、きっかけさえあれば、一気に恐慌に陥りかねない雰囲気。だが、人々の中でひときわ目立つ服を着た男性が、一歩前に出たかと思うと、よく通る声を張り上げる。

「うろたえるな! どのような罪人であれ、これ以上罪を重ねさせるわけにはいかない、そうだろう?」

 その手に握る剣を高々と掲げて、宣言する。

「石を持て、武器を振りかざせ、罪人を打ち払え! 秩序を乱すものは、この町には不要なのだから!」

 その声に共鳴するかのように、人々は手に持ったものを構え、そのうち一つが放たれて――。

 

 

 かくして、今に至る、というわけだ。

 少女の手を引いて、どれだけ街中を駆けたのかはわからない。追跡の足音が完全に聞こえなくなったのを確認して、Xはやっとのことで立ち止まる。

 流石に足が限界だったのだろう、少女はその場にぺたんと座り込んでしまう。Xもまた、その横に座り――それでも、少女よりずっと視線は高いのだが――、静かな声で言う。

「すみません、無理をさせました」

 これだけ走っても息一つ切れていないのか。おそらくそれは見かけが変容していることとは無関係の、Xの本来のポテンシャルによるものだろう。長らく独房から外に出ていなかったとは思えない身体能力の高さは、Xの特性の一つであったから。

 少女はふるふると首を横に振り、Xを見上げる。その顔には深い疲労と怯えこそ見えるが、先ほどまで浮かんでいた恐怖の色は随分減っていた。

「おじさんこそ、大丈夫?」

「はい」

「でも、頭、痛くないの?」

 ああ、と。言われて初めて気づいた、とばかりにもう一度額を拭う。どうやらまだ出血は続いていたらしく、異形の手は真っ赤に染まった。それでも、Xはいたって平坦な調子で言う。

「我慢できる、程度です。ご心配なく」

 少女は「でも」と更に何かを言おうとしたが、それ以上は言葉にならなかった。ぎゅっと唇を引き結び、黒い目でXを見つめている。Xはもとよりそう口数の多い方でないから、少女を見つめたまま黙っている。Xにも色々と聞きたいことと思うのだが、おそらく少女の心を慮るがゆえに、余計な口を利かないようにしているのだろう。

 すると、しばらく黙り込んでいた少女が、ぽつりと言った。

「おじさんは、……人を、殺したの?」

 思わぬ問いかけに、Xも面食らったようだった。「うん?」という彼には珍しいちょっと間の抜けた声が、スピーカーから聞こえてくる。Xがそんな反応をするのは少女も想定外だったようで、大きな目を激しく瞬かせて、それから改めて口を開く。

「だって、そんな、怖い姿をしているから」

「……どういう意味、でしょうか。この姿が、関係しているのですか。罪人、という言葉も聞こえましたが」

「知らないの?」

「私は、遠い場所から来たばかりなので。よかったら、教えてくれませんか。どうして、私が『人殺し』だと思ったのか」

 Xの言葉に、少女は不思議そうな顔をしていたが、やがてぽつぽつと語りだす。

 この『異界』では、罪を犯した人間は形が歪むのだ、という。

 神が定めた法――具体的な内容は『こちら側』で人が定めている法とそう変わらないようだ――を守ること。それがこの『異界』に生きる者にとっての絶対的なルールであり、法に背いた者は、罰として本来の姿を失っていくのだという。

「……つまり、あなたも何か、法に背くことを?」

 Xの問いに、少女はこくりと頷いた。

「盗んだの。お店のパンを、ひとつ。……どうしても、お腹がすいてたから」

 もちろんそれだって罪であり、少女の姿はこの通り、歪んでしまった。

 ひとたび姿を歪ませた者は「罪人」と呼ばれる。ルールを破るもの。秩序を乱すもの。故に、ほとんどの罪人は捕まって町から追い出されるか、殺害されることになる。だから、先ほど少女は追われていて、そして、Xもまた武器を向けられたということだ。

 なお、罪人を害することは罪にはならないのだという。罪人は己から法を逸脱した存在であるがゆえに、法の下に守られることもない、それがこの『異界』のルールの一つであるらしい。

 また、姿の変わり方は罪の重さに比例しており、ものを盗んだり、人を騙して金銭を取り上げたりすれば体の一部が変じてゆくし、この『異界』において重罪とされる罪を犯せばそれだけで人間の姿を失ってしまう。

 ――重罪。それは、例えば「殺人」だとか。

「だから、おじさんは、人を殺したんだと、思って」

 少女の言葉に、Xは「なるほど」と頷いた。

「そうですね。私は人を殺してきました。……片手の指で、数えきれない程度には」

 まさしく、Xは連続殺人犯だ。彼の名前や背景を知らないまま、それだけを理解している。この時代には稀有な殺人鬼なのだから、少し調べればすぐに何者かは明らかになるのだろうが、私は未だそれをする気になれないまま、Xという無名の一人として彼を扱っている。

「人殺しは、いけないことだよね。おじさんのふるさとでも」

「ええ。とても、重い罪です」

「でも、どうしても、殺さなきゃいけなかった、理由があったの?」

 少女が空腹のあまり、店のパンをひとつだけ取り上げてしまったように。Xにもその理由があるのかという、問いかけ。私もXが殺人鬼となった理由を詳しく聞いたことがない。『潜航』に必要がないから聞かなかった、というのもあるが、少しだけ……、恐ろしかったのかもしれない。Xの横顔に触れるのが。

 Xは「そうですね」と少しばかり少女から視線を外し、視線を持ち上げる。街灯の明かりは、この一夜の緊張感にそぐわない、柔らかな色をしている。

「どうしても、という理由はありません。普段は、『殺したかったから』と説明しています」

 確かに、私はそう聞いた。だからその先を聞くことができなかったのだ。Xにとって殺人とは湧き上がってくる衝動であり、それ以上でも以下でもないのだと――、そう、言われたから。

「ただ」

 付け加えるならば、と。Xは言葉を続ける。

「『それしかない』と思ったんです。誰かが手を汚さないと解決しないことがあるなら、私がやりたいと、思いました」

 何一つ具体的ではなく、何とでも捉えられそうな言葉ではあったが、これは私も初めて聞く話だった。

 この言葉が事実ならば、Xの言う「殺したかった」という言葉が少しばかり色を変える。単なる衝動というより、それはいっそ、歪んだ義務感だったのではないか。

 とはいえ、だ。

「結局のところ、人殺しは罪ですから。罪を犯せば罰せられて、しかるべきです」

 Xの声は、いたって落ち着いていた。自身の境遇を客観的に見つめるがゆえの、どこか突き放したような物言い。

「でも、そうしなきゃならない、って思った理由が、あったんだよね?」

「いくら理由を積み重ねても、言い訳にしかなりませんから。どれだけ弁明しても、犯した罪が消えるわけじゃない」

 ――だから、殺した理由に意味はない。

 Xはそれだけを言って、少しだけ息をついた。普段は寡黙といっていい彼が妙に饒舌なのは、この状況に思うところがあるのか、それとも。

 少女はじっとXを見ていた。既にXに対する恐怖の色は完全に払拭されており、代わりに強い意志の光が、Xを射抜いている。

「おじさん、わたし、死にたくないよ」

 これが、神様が与えた、罪に対する当然の罰だとわかっていても。それでも、死にたくないのだと少女は言う。

 死にたくないからこそ、空腹のあまりにパンを盗んでしまった。けれど、それを理由に、罰を受けて排斥されるという、もう一つの死を近づけてしまった。彼女を愚かだと断じるのは簡単だが、私はそうする気にはなれなかった。本来、そうなる前に守られるべきだったのではないか、そんな苦い思いが胸に広がる。

 きっと、それはXも同じであったに違いない。

「……罰、とは」

 低い声が、スピーカーから漏れる。ほとんど呟きのような小さな声。けれど、不思議とよく通る、声。

「少なくとも、罪に対して与える罰は、ひとつのきっかけであるべき、だと思っています」

 あくまで私の故郷の話ではあり、私の主観も含みますが、と付け加えて、Xは少女を見下ろす。

「罪を償い、自らのありさまを見直し、もう一度やり直すためのきっかけであり、手続き。そして、償いが終われば、周囲ももう一度の機会を与える。許しを、与える。それが、罰というものの、あるべき姿なのでは、ないでしょうか。私は、そう信じています」

 Xのそれは、言ってしまえば極端な理想論だ。そのような願いが込められていても、その通りに運用されるとは限らないのが現実だということは、私も嫌というほど理解している。ただ、そんな「理想」をXという人が抱いていること、それ自体に感じ入るものがある。

 少女はそっと、己の角に触れる。罪人の証、だが、それによって彼女の未来全てが奪われるのは、果たして正しいことなのだろうか。神の定めたことであろうとも、それが、全て正しいと言い切れるのだろうか。

「わたしも、やり直せる、のかな」

「私は、そうあってほしいと願います。人は、どうあれ過ちを犯すものです。償うこと。許すこと。それができなければ、人は、滅びゆくだけです」

 Xというひとについて、私は何も知らないと言っていい。知れてよかった、と思うと同時に、どこか落ち着かないような気持ちにもなる。ならば、Xもまた、いつかは許されるべきではないか。償いの果てのもう一度の機会、をどこかで願っているのではないか――、と、思ったのだが。

「もちろん、中には、取り返しのつかない者もいて。そういう人間は、死で償うしかない、のですが」

 取り返しがつかない。

 その言葉一つで、他の誰でもなく、Xが自分自分をそう認識しているのだ、ということだけは明白に理解できてしまった。

 どうしようもない。手の施しようがない。故に死ぬしかない。それ以外に償いようがない。Xはそう言っているのだ。

 Xはいつだって、自らの死を恐れない。ただ、「死刑が執行されるまでは生きているべき」と考えて、可能な限り死なないように振舞っているだけで。一体何を経験すればそんな風に思い極めることができるのか私にはわからないし、きっとこれからも理解できないだろう。

 足音が聞こえてくる。二人を探す人々の声も。少女がびくりと体を震わせるのに対して、Xはゆっくりと立ち上がる。

「逃げましょう。立てますか?」

「……うん」

 立ち上がりながら、少女が差し出した手を、そっと握る。その異形の爪で傷をつけないように、という気遣いが伝わる。

 どこに逃げるというのか、逃げた先に彼女が救われる道があるというのか。それは誰にもわからないけれど、この場にいれば、生きたいと望む彼女の願いは永遠に叶うことはない。それだけは、はっきりしていたから。

 そして、二人で駆け出そうとしたその時だった。

 夜の町に響く、甲高い音。それが銃声だと気づいたのは、がくりとXの視界が揺れて、彼が膝をついたのが理解できてからだった。

「おじさん!」

 少女の悲鳴と同時に、Xが、まさしく獣のような唸り声を漏らす。落とされた視界に、かなりの血が落ちている。それでも、壁に手をついて立ち上がろうとしているところから、致命傷ではなかったらしい。乱れる呼吸の合間に、Xが何とか声を振り絞る。

「大丈夫、です」

「嘘! そんなに、血が……」

「大丈夫です」

 何一つ大丈夫ではない、それはただ観測しているだけの私でもわかる。ただ、Xは案外本気でそう言っているのかもしれない。自分は大丈夫だ、まだ立てる、走れる、彼女を守ることができる。

「当たったな! 続け、近寄らせるな、反撃を許すな!」

 振り返れば、町の人々がもと来た道に立ちはだかっていた。その手には、先ほどまでの石や棒ではなく、猟銃が握られている。

 なるほど、確かに、罪人も死にたくないのならば、まず反撃を考えるだろう。神も人間も罪を許さない、そういう『異界』なのだ、一度でも過ちを犯せば、取り返しがつかない。その状態で相手を殺害するのに何の躊躇があるだろう。Xのように「逃げる」という選択を取る方が稀有なのだ。故にこそ、反撃を許さないよう、遠距離から確実に仕留めに来たのだろう。

 これは、もはや逃げるのは難しそうだ。Xはそう悟ったに違いなかった。震える足に力を込めて立ち上がり、道を塞ぐように立つ。そして、背後の少女に向かって言う。

「逃げて、ください」

「でも、おじさんは……!」

「いいんです。私は」

 いいわけない、と叫ぶ少女の声を聞きながら、Xは真っ直ぐに銃を携えた人々を見据える。もしかすると、笑っていたのかもしれなかった。私はXの笑顔を知らないが、それでも。

「死にたくない、のでしょう?」

 その穏やかな声は、まるで、微笑んでいるかのような響きを帯びていた。

 一瞬の沈黙ののち、「ありがとう」という今にも泣きだしそうな声をひとつを残して、少女の小さな足音が遠ざかっていく。一斉に銃を構える音が、こちらまで聞こえてきて――。

 私は、決断する。

「引き上げて」

「しかし」

「Xを死なせるのは、惜しい。そうでしょう?」

 Xは極めて優秀な異界潜航サンプルだ。元々使い捨てを想定して死刑囚を手配しているというのに、本末転倒だ、と言われればそれまでだが、Xのあらゆる『異界』に対応した行動力は、他の誰にも真似ができないものだ。できる限り長く使いたい、と望むことくらい許されてほしい。

 スタッフたちは顔を見合わせ、それから表情を引き締めて引き上げの手続きを開始する。

 町の人々手にした銃が火を噴かんとした、その瞬間にXの視界を映すディスプレイが暗転し、スピーカーから聞こえていた音が、ふつりと途絶える。それきり、『異界』の全てが認識できなくなる。

 ――さて、Xにどう言い訳しよう?

 本当は、そんなことする理由もないのだ。我々にとってXは『生きた探査機』であって、彼の心情まで慮る必要はどこにもない。

 だが、『異界』の少女に向けた言葉の優しさと、身を挺して彼女を庇おうとした彼の有様が脳裏にちらつく。

 あの少女は助かったのか、それとも……。私が、Xがそれを知ることは、もう、できない。

 遠い場所にあったXの意識を、目の前に横たわる肉体に引き戻すためのシーケンスを眺めながら、私はただ、戻ってきたXに何を言うべきか、ただそれだけを考えていた。

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