「やんほしか」

凪野海里

「やんほしか」

 あさがお通りは、この町唯一の商店街だ。駅前から続くその道には、たくさんのお店が立ち並び、そしてそのほとんどがシャッターを締め切っている。

 昔はさぞかし活気に溢れていたのだろう。シャッターが閉められているとはいえ、すっかり年季が入ってかすれた店の看板には、「あさだベーカリー」「大谷理髪店」「やおや・茂木」などの字が並ぶ。


 ちなみに活気に溢れていた頃の記憶は、その人気のあまりない道を歩く少女・歩乃花ほのかにはない。彼女が物心つく頃には、すでに寂れた商店街となっていたのだ。

 そんな誰も寄り付かない、シャッターの店同士に挟まれる形で、今となっては珍しい貸本屋が存在している。もしもオセロだったらこの店もとっくにシャッター店舗の仲間入りを果たすところだ。


「やんほしか」と書かれたその店は、右から読むと「かしほんや」になる。名前の付き方も今となっては珍しい形である。

 歩乃花はその「やんほしか」の引き戸に手を添えて、それを一気に開けた。


「フミくん、本貸して……! って、あれ?」


 が、そのつもりが引き戸は最後まで開ききらず、途中で何かに引っかかったのか止まってしまった。約30センチ。体を縦にして、ぎりぎり入るか、入らないかくらいである。

 戸の前でもたついていると、店の奥の暗闇から静かなため息が聞こえた。


「歩乃花、また壊したのか」


 暗闇から聞こえたのは、テノールボイス。その声に反応して、歩乃花は顔を赤くしながら「壊してないよ!」と抗議する。


「ちょっと、勢いつけすぎただけだから。壊してない」

「そう言っておまえ、このあいだも似たようなことになっただろ。ただでさえ年季入って建付け悪いのに……。あれ以来、慎重に開けないとまともに開かなくなったんだからな」

「じゃあ教えてくれたら良いのに……」


 引き戸に嵌められたガラス越しに映ったのは、歩乃花と背丈のそう変わらない、少年だった。不機嫌そうに寄せられた眉の下にある、フチなしメガネ。その奥で光る目は、見た者に大きな印象を与えるほどに鋭いものだ。黒い髪は癖が強いのかボサボサで、手入れがされていないのはひと目見ただけで明白だった。きっと本人は直す気もないのだろう。もはや諦めているのかもしれない。

 現れた少年は引き戸をつかむと、横に、縦にと激しく揺らしたあと。最後にガタンと嵌めるような音をたてて、それからゆっくりと引き戸をスライドさせた。

 引き戸は容易く開くことができ、思わず顔を輝かせる歩乃花の前で、少年は引き戸に貼られた張り紙を、「ん」と指で数度トントン叩いた。


 そこには、「引き戸の開閉はゆっくり、慎重に行ってください。勢いよく開けると壊れます」とある。


 歩乃花はその文字の羅列をしっかりと読んでから、あきれ顔の少年に向かって苦笑いを浮かべた。

 少年は名前を、あやという。「やんほしか」の初代店長の孫にあたり、今は彼が二代目の店長を務めている。

 歩乃花とは、お互いの祖父母が仲が良かったこともあって、幼い頃からの付き合いかつ、読書仲間でもある。初代店長が亡くなってからも、歩乃花は度々「やんほしか」にやってきては、夕方近くになるまでこの店に入り浸っていることが多い。

 もちろん、ちゃんと利用だってしている。閉店間際まで読み切れなかった本は、その都度お金を払って借りたりするのだ。


 ちなみに歩乃花は文のことを、「フミくん」と呼んでいる。出会ったばかりの頃、『文』を『あや』と読むとは知らなかった歩乃花が「読みづらいから、フミくんって呼ぶね!」と勝手に宣言し、それからずっと定着している彼のニックネームだ。


「入りなよ」

「ありがとう」


 文に招き入れられるかたちで、歩乃花は入店する。

「やんほしか」の店内はそれほど広くはない。商店街の店の1つだけあって、スペースは限られている上に、店内はほぼ本で埋め尽くされている。天井まで届く本棚はもちろんのこと、そこに入りきらない本は通路に積み上げられていたり、段ボールに入っていたりするのだ。


「そうだ、フミくん。勧めてくれたこの本、すっごく面白かったよ!」


 歩乃花は肩にかけていたバッグから、2週間ほど前にここで借りたファンタジー小説を取り出した。

 文は、自分の定位置であるカウンター越しにその本を受け取る。その表情は、先ほどとは打って変わった。穏やかで優しいものになる。


「やっぱり。歩乃花なら気に入ると思ったよ」

「もうすっごい良かったよ。特に最後のシーン、感動して思わず泣いちゃった」

「相変わらず涙もろいな」

「フミくんは泣かなかったの?」

「感動したよ」

「ふぅん……。あ、栞にも感想つけておいたから、あとで読んでね」


「やんほしか」で本を借りると、文は毎回栞をつけてくれる。薄く横罫線が引かれているだけの、店名すら付いていないものである。

 この栞は、店の利用者からは「感想栞」と呼ばれていて、そこに読んだ本の感想を書き込める方法になっている。これは、初代店長が始めたことで、文の代になってからもずっと続けられていることなのだ。

 文は早速栞を取り出して内容を読もうとするが、歩乃花が慌てて彼のメガネに手をあてて――レンズには触れないギリギリ――「読んじゃダメ」と言った。


「恥ずかしいから、目の前で読まないで」

「どこで読んだって一緒だろ」

「ダメ! 絶対ダメだから!」


 文はあきれたように息をついて、栞をカウンターの引き出しにしまった。


「にしても、一瞬見た限りだけど。歩乃花って相変わらず感想長いよな」

「え、そうかな」

「みんなそんなに書いたりしないよ。無地のまま返されることだってあるし」

「そうなんだ。でも、フミくんがおすすめしてくれた本だもん。楽しいし、面白いから。読み終わると、とにかく書ききれないくらい、たくさん言いたいことあるから、いっつもそんな感じになっちゃうんだよね」

「じゃあ、今度からおまえだけ。栞もう1枚つけておくか」

「あ、なら原稿用紙にして。1冊読み終わるごとに感想文書くから」

「俺は学校の先生かよ。夏休みの宿題じゃないんだから」


 そう言いあって、2人して笑いあう。この何気ないひと時が、歩乃花も文も大好きだ。

 それから歩乃花は、とにかく本の感想を文に語りまくった。栞に書いた分はその感想を要約したものに過ぎない。とにかく、本当にとにかく。語っても語りつくせないほどに、言いたいことは山ほどあった。

 文はそれを聞きながら、時折自分の感想や意見も混ぜ込んでくるから、とにかく会話は止まらなかった。時に解釈違いで喧嘩して、小さい頃はそのせいで1週間以上も口を利かなかったことがあったくらいだ。

 そのたびに、おじいちゃんも、おばあちゃんも、あきれたり笑ったりしていたっけ。そんなことを歩乃花は思い出す。


「あ、あとこれも。こっちは、個人的に借りた方だから」


 ようやく話にひと段落がついたとき、歩乃花はバッグから、さらにもう1冊本を取り出した。こちらは、丁寧に布製のブックカバーがかけられている。


「ああ、サンキュ。これも面白かっただろ?」


 されど、文の言葉に歩乃花は何も答えなかった。

 本に目を落としていた文は不思議に思って、顔をあげて歩乃花を見る。


「歩乃花?」

「そ、それ。感想書いたから。あとで読んでね。絶対にね!」

「お、おう……」


 彼女の勢いに呑まれるまま、文はうなずいた。ここまで真剣な彼女も珍しい。いったいどんな感想が書かれているのか。気になるところだ。

 とはいえ、また目の前で読もうとしたらぎゃんすか騒がれるに決まってる。だからとりあえず、彼女が店を出るまで我慢だ。

 閉店時間まで、まだまだ時間があるからそれからだなぁと考えていると、歩乃花は突如くるりとカウンターから背を向けた。


「じゃあ、私。今日は帰るね!」


 言うなり、彼女は大急ぎで帰って行った。

 あとに残された文は、あぜんとして彼女の背中を見送る。彼女にしては珍しい。本の感想も言わずにさっさと帰ってしまうなんて。

 それにしても残念だ。文は1人残った店の中でため息をつく。今回、文が歩乃花に個人的に貸した本は、文が最近読んで1番面白かった本である。どうせなら、また歩乃花と一緒に感想を言いあいたかったのだが。

 たしか、感想書いたって言ってたよな。それだけでも読んでおくか。本をパラパラとめくっていくと、折りたたまれたメモ用紙が1枚入っていた。取り出して、開いてみるとそこには――。


「フミくん、好き」


 固まること、数秒――。だが、次の瞬間には、「はぁっ!?」と大きな声をあげていた。もし、今ここに文以外にも誰かいたら、その声の大きさに誰もが驚いたかもしれない。その上、それまで普通だった文の顔色は、まるで沸騰でもしたかのように。みるみるうちに真っ赤になってしまう。

 いつの間にか、文庫本は閉じられていて。文の目は、何度も。何度も。メモ用紙に書かれた言葉だけをなぞっていた。


「ああ、そうだ……」


 この話、続きもあるんだ。積ん読してたけど、早く読まなきゃ。

 歩乃花は好きになった物語は、自分でも買ってしまう子だから、そうなる前に早く読んで、貸さなければ。


 一度、店の奥にある自宅に引っ込んでから、再び顔をだした文の手には一冊の文庫本と、それから「やんほしか」の店のロゴが入ったメモ用紙が握られていた。

 好きな本だから、読み終わるのはあっという間だった。

 すっかり。日が暮れた店内は、閉店時間も過ぎたというのにまだ明かりが煌々と外まで漏れている。文は読み終えた本を閉じると、メモ用紙にペンを走らせる。


 次に彼女が店に来たとき、このメモ用紙を挟んで本を貸そう。そのときは絶対、「あとで絶対読めよ」と伝えるのだ。

 書き終えたメモを折りたたみ、本の適当なページに挟んでから、文は店の電気を消した。

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「やんほしか」 凪野海里 @nagiumi

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