繁盛書店の秘密

嶋野夕陽

繁盛書店の秘密

 私が学生の頃、書店の数は今よりもずっと多かった。

 十kmも先にある高校に自転車で通っていた私は、その通学路に、片手で収まらないくらい書店があったことを記憶している。

 私は読書が好きだ。

 電車通勤するようになってからは、読書専用のタブレットを持ち、毎日それと向き合っている。家にある本棚に、長いこと新しい本を迎え入れていないことに若干の寂しさは覚えていたが、便利さと天秤にかけると些細な問題でもあった。


 そんな私が、その新しい書店を見つけたのは偶然であった。

 深夜になってトイレットペーパーが切れていることに気がついた私は、ため息をついて少し遠くにあるドラッグストアに足を伸ばすことにしたのだ。

 普段だったら駅からの帰り道にあるスーパーで買ってしまうのだが、今の時間になるともう閉まっている。運動不足なこともあるし、たまには夜の散歩も乙なものかと前向きに考えて、靴に足を滑り込ませた。


 ぼんやりと歩き、ドラッグストアでトイレットペーパーを購入。店を出てから、ふと当然のようにつけていたマスクを外した。

 他に人がいないのに、マスクなんかつけていても仕方がない。

 マスクをつけていると気がつかないが、外してみるとさまざまな香りが鼻腔に飛び込んでくる。

 ドラッグストアの芳香剤。

 しばらく歩いて、梅の花の香り。

 通り過ぎた車の排ガスの匂い。

 季節と街並みを嗅いでいると、不意に鼻がむずつき出して、私は大きなくしゃみをした。

 そうして私は軽度ながらも花粉症であったことを思い出す。マスクをつけてばかりいたせいで、そんなことも忘れてしまっていた。

 名残惜しく思いながらも仕方なく再びマスクをつけて、私は夜も道を歩く。


 せっかく外に出たのだから、帰り道に酒でもかって行こう。そう思った私はふらふらと明るい看板に吸い寄せられていき、店に入る前に足を止めた。

 記憶によればコンビニだったはずのその店は、明るさは前と変わらずに、いつの間にか書店に様変わりしていた。

 看板に24という数字が光っているせいで紛らわしいが、書店なのに24時間営業しているということなのだろうか。

 紙の本が売れない時代に、新規オープンとは強気だと思いながら、店の中を覗き込む。

 すると驚いたことに、店の中はたくさんの客で賑わっていた。書架の一つ一つに立ち読み客がいて、静かに本を読んでいる。

 今どき購入しないと読めないようになっているのが普通なはずなのに、実に変わった店だ。


 気になった私はトイレットペーパーを片手に、書店の入り口をくぐり、適当な本棚の前で足を止めた。

 気になったタイトルの背表紙に指をかけて取り出し、パラパラと数ページめくる。紙の本をめくっている指先の感覚と、独特の匂いが、私を物語の中に引き込んでいく。

 三分の一ほどを一気に読み進めてから、はっと店の中の時計に目を向けると、すでに半刻以上が経過しようとしていた。

 このまま全て読み終えてしまうことに罪悪感を覚えた私は、その本を片手に持ってレジに向かう。

 気の良さそうな眼鏡をかけた男性店員が、会計をして丁寧にカバーをかけてくれた。


 片手にトイレットペーパー、反対の手に一冊の本。


 いつにない充実感を覚えながら、私は夜の道を歩く。家にたどり着いて、酒を買うのを忘れていたことに気がついたが、そんなことはもはやどうでもよくなっていた。

 玄関に余計な荷物を放り出し、長椅子に体を預けて買ってきた本を開く。

 一気にそれを読み終えた私は満足感と共に本を閉じて、長く放置された本棚に、その一冊をそっと差し入れた。


 それから私は、眠れない深夜や、退屈な休日が訪れるたびに、その本屋に足を運んだ。本を我が家に迎え入れることもあれば、立ち読みだけして終わる日もある。

 その本屋はいついっても私以外に立ち読み客がいて、やはり街に本屋は必要なのだと、私は密かに喜んだものである。

 週に一度以上通うようになってくると、顔馴染みもできて、店に入った時に立ち読み客に会釈して挨拶をしたりもする。

 隣に住む人の顔も知らない昨今、私はこの書店に訪れるたび少しだけ心があったかくなるのだった。


 一つ懸念があるとすれば、ほとんどの日に、メガネの男性店員がレジに立っており、日に日に顔色が悪くなっていく点だ。

 一度心配になって声をかけたことがあった。


「店員のアルバイトが見つからないのかい?」

「いえ、そういうわけじゃないんですが」

「それならば人を雇ったほうがいい。私も学生だったらここで働きたかったけれどね」

「はあ、ありがとうございます」


 ハキハキとした返答ではなかったけれど、彼が本にカバーをかける仕草はいつもの通り丁寧で、彼の実直な性格がみてとれるようだった。

 体調を崩さないといいのだけれどと思いながら、その日も私は一冊の本を持ってきろについた。


 書店を見つけてから半年ほど経ったある半年ほど経ったある日。

 夏の暑さにやられていた私は、深夜になって久々に本屋に足を向けることにした。冷房の効いた部屋から出るのは億劫だったが、新しい本を迎え入れることを思うと、不思議とすこし足が軽くなる。


 生ぬるい風を肌に感じながら、汗をかかない程度にのんびりと歩いて書店の近くまで来ると、いつもと違って本屋の電気はついていなかった。

 24の字は光を放っておらず、シャッターは降りていないが、中の電気もついていない。


 流石に24時間営業は厳しかったのだろうか。それとも店員のあの男性が体調でも崩してしまったのか。

 そんな心配をしながら店の中を覗き込んでいると、突然後ろから「おい、あんた」と声をかけられて心臓が跳ねた。

 平静を装って振り返ると、いつも会釈をしてくれていた禿頭の男性が、ポケットに手を入れてだるそうにしていた。


「ああ、いつもの……」

「あんたもやられた口かい?」

「やられたとは?」

「未払いだよ。それともあんたは給料もらったってのかい?」

「なんの話を……?」


 なにやらお金の話をしているようだが、私はここに本を読み買いに来ていただけで、それ以外の金のやり取りなどしていない。

 訳がわからず眉を顰めていると、男性は舌打ちをして石を蹴飛ばした。


「今どき本屋なんて流行らねぇんだよな。でもやめるならバイト代くらい払って欲しかったぜ」


 そう言って男性は唾を吐いて立ち去っていた。

 ひどい態度だった。良い思い出を汚されているようで、私の気分はひどく落ち込んだ。

 また明日来てみよう。

 そう思って踵を返すと、向かいからこれまた本屋の常連だった学生らしき若者が歩いてくる。


「あ、どーも」

「こんばんは」


 気軽に片手を上げて挨拶をしてきた青年に、私も軽く会釈する。


「あー、夜逃げっすかね? 立ち読みのサクラバイト、漫画読み放題でいいバイトだったんすけどねー」

「……え?」

「本買ってく人ほとんどいなかったもんな、仕方ないか。立ち読みできるってだけで十分元取れたし、ま、諦めましょうか」

「なにを言ってるんだ、君は?」


 思わず尋ねた私に、若者はキョトンとした顔をしてから「あー」と気まずそうに顔を逸らした。


「おじさん、しょっちゅういたから仲間だと思ってたけど、もしかしてちゃんとした客だったの?」

「ちゃんとした客?」

「この店、立ち読みしてた人ってほとんど雇われたサクラだったんだよね。客が入ってれば人が来るだろう、みたいな作戦だったらしいよ。結局ただの立ち読み客が増えただけだったみたいだけどね」


 「それじゃあそういうことで」と言って、いそいそとさっていく若者を、私は呆然と見送った。

 

 暑い夏の間、オンラインで本を数冊購入したことを思いながら、私はもう一度真っ暗になってっしまった書店の看板に目を向ける。


 憩いの場、懐かし書店の雰囲気。

 すぐに目を背けた私は、家に向かってまっすぐ逃げるように歩き出した。

 幻想にしか過ぎなかったその場所を見ていると、本を読むことすら嫌いになってしまいそうな気がした。


 明日からはまた、タブレットで本を読むようにしよう。

 ああ、喉が渇いた。少し離れたところにあるコンビニで、安くて度数の高い酒を買い込もう。

 私は、アルコールと炭酸で喉をいじめて、この嫌な気持ちをさっさと忘れてしまいたかった。

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繁盛書店の秘密 嶋野夕陽 @simanokogomizu

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