本屋とサイダー
壱ノ瀬和実
本屋とサイダー
もしこの書店で万引きをしたら、俺は一体どうなってしまうだろう。
もしもこの場所で裸になって、レジカウンターでも上ってバカみたいなことを大声で叫んだらどうなるだろう。
めちゃくちゃになりたかった。めちゃくちゃにしたかった。
毎日の退屈さに辟易していた。暴れるだけ暴れて、どうにかなってしまいたかった。
どうせなら欲望の限りを尽くそうかとも思った。それこそ、すぐ近くでファッション雑誌を立ち読みしている女子高生のスカートをめくって、好き放題触りまくって、悲鳴を上げられた瞬間に逃げ出して、これ以上ないスリルを味わってやろうとか、そんなことばかり考えていた。
一つも、出来るはずなんてないのに。
書店内は静かだ。文具コーナーに小学生がいて、レンタルビデオコーナーはサブスク全盛期だからか客は誰一人おらず、漫画コーナーにはそれなりに人はいるが、誰一人として声を発さない。
時々誰かの咳と、私服警備員が巡回しているとのアナウンスだけが耳に響く。
店外の自動販売機で缶のサイダーを買った。飲食禁止の店内で飲んでやろうかと思った。できなかった。本にぶちまけてやろうかと思ったが、飲めもしないのだ、そんなこと出来るわけがない。
鬱屈とした日々を打破出来るか否かは全て自分次第だというなら、俺はきっと何も変わらないままこうして生きていくのだろう。
腹の底では常にバカみたいなことを考えて、スーツ姿のサラリーマンを見れば嘲って、女を見りゃ欲情し、金を見りゃくすねたくなって、でも、俺は何も出来ない人間で。
人から見れば真っ当に生きている人間に映るだろう。真っ当なことなんて何一つ考えちゃいない。真っ当じゃないことをする勇気がないだけで、頭の中は大凡人間の屑みたいなことばかりだ。
そんな人間、ばかりなのだろうか。
真面目そうな顔でハードカバーの小説を買おうとしているサラリーマンも、キラキラして見える女子高生も、真剣に消しゴムを選んでいる小学生も、笑顔で会計する店員も、皆、真っ当に生きている風を装って、言うも聞くも憚られるようなことを考えて生きているのだろうか。
そうであって欲しいと思った。そうであって欲しくないとも思った。
嗚呼。もし今この手にある缶ジュースを振って、プルタブを開けて一気に弾ける炭酸が書店内に飛び散り、まっさらな本を全て濡らしてしまえたら、どんなに気持ちがいいだろう。
普通を気取って生きている客も、店員も、皆全身にジュースを浴びて、欲望のままに暴れてしまったらどんな世界になるだろう。
俺は缶ジュースをポケットに押し込んだ。大腿部が一瞬にして冷えていく。
女子高生の後ろを通った。スカートに触れないよう、少し距離を取った。
店を出ると外は暗く、目の前を走る国道からトラックの排気ガスが流れてくる。不快な臭いに顔を顰めながら、冷たさに耐えかねてポケットから缶ジュースを取り出す。缶を少し振った。服が濡れるのが嫌で開けなかった。
悪辣も演じられず、奇行に走ることすら出来ない臆病者の自分が嫌になる。
帰路に就いた。まっすぐ。面白味のない帰り道を。
歩きながらサイダーを開けて、少しずつ飲み、時々おくびを出す。甘さが口いっぱいに広がる度に、どうようもない自分が泡と一緒に弾けていくのが分かる。
誰もいない田舎道で歩きスマホをした。自分が出来る唯一の悪行でもあった。
何も変わらない日々。何一つ面白くない世界。
またあの書店内を思い浮かべる。次にあの店に行ったら、どんな悪いことをしてやろう。
そんなことを考えながら、読みもしない新品の新書を手に、一人夜道を歩いた。
本屋とサイダー 壱ノ瀬和実 @nagomi-jam
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