青菫 05
その日、朝からレナートはそわそわしていた。
何故なら、社交辞令かと思っていたクローネの言葉が、全く社交辞令ではなかったからである。
本日、レナートは通常業務を午前中で切り上げて、午後からはクローネを行きつけの店に案内する予定になっている。行きつけの店――つまり、製糸工場や布の卸問屋だが。
上等な紫檀の馬車がメゾンの車停めに停止した。中から現れるのは、貴族令嬢とは思えないほど簡素な作りのワンピースを纏った少女――クローネ。お忍びスタイルか。
夏の夜空に例えられるほど見事な黒髪は三つ編みに結い、持ち前の高貴さよりも素朴さを前面に出している。水色のワンピースそのものは大した技術も必要なく、その辺の主婦でも型紙さえあれば作れそうなデザインだが、裾を飾る刺繍だけがえぐいくらい芸術的だ。何ともアンバランスだが、ワンピースのシンプル過ぎて素っ気ないデザインが却って刺繍の見事さを際立たせ、簡単なデザインのワンピースをそうとは見せない。
「ごきげんよう、レナートさん」
「ごきげん麗しく、クローネ様」
「今日、とても楽しみでしたの」
ただ嗜みとして上手いだけではなく、刺繍が趣味で特技でもあり、諸事情により針子として働きその特技でご飯を食べていたクローネは、今日の午後からの予定が本当に楽しみだったらしく、白い日傘の下、琥珀の瞳はキラキラと輝いている。
「公爵令嬢でしたら、わざわざ足を運ぶ必要もなく、たくさんの糸や布を積んだ荷車ごと商人や工房主を邸まで呼び付けるのが普通ですしね」
「それはそれで、普段から分刻みのスケジュールで生きている私には助かるのですけど。でもリルカとして過ごした頃に、メゾンだけじゃなく手芸店や問屋にお使いに行く事も多々あって。邸までたくさんの種類を持って来て下さっているのは知ってましたが、自分の足で行けばもっとたくさんの種類を直に見て触って選べるのだもの。あの快感を知ってしまうと、自分で行きたくなるのです」
「判ります。しかもここは王都ですから、品数も豊富、流行も最先端ですからね」
「何とか夕方まで空き時間を作れたのだけど、本当は一日だって足りないに違いないわ」
一先ずレモンの輪切りを浮かべた水と、茶請けに作って冷やしておいたババロアを出して、彼女のお付きのメイドや馭者の男にも提供する。
「不在の四年の間に、過去の私が買い溜めた布も流行から外れてしまった色柄のものは「何でも良いから大量の布地が欲しい」と求めている孤児院や修道院に寄付してしまったので、私の刺繍部屋に空きが出来まして。だから今日はたくさん買うつもりなの。後日届けてもらう事も出来ますが、出来れば今日持って帰りたくて」
刺繍用に部屋一つ保有しているとは。噂以上に刺繍が好きらしい。他の令嬢とは刺繍に対する熱意やスケールが違う。
「クローネ様とメイドさんのお二人しか乗っていないのに、やけに大きな箱馬車なのはそういう理由なのですね」
「どんなに忙しくても、一日一時間は刺繍の時間を取っているの。私にとってはなくてはならない日常の一部ですもの。今は刺繍だけじゃなく、お洋服も作れるようになりましたし。公爵令嬢……そして、ゆくゆくは王室に入る私が職人技を極め過ぎてはいけない事は承知していますが、せっかく得た技術を多忙さにかまけて錆び付かせるのは、何だか勿体なくて」
「そういえば、アルフレート殿下にシャツを作るお約束をしていらっしゃるのだとか…」
「私が簡単な衣服を作れるようになったのだと知って、アル殿下ったら気になって仕方ないみたいなんです。私の勉強の遅れを気に掛けて下さっているので中々言い出せないようなのですけど、普段着を作ってほしいらしいと、以前彼のお付きの護衛騎士から伺ったので。私にもう少し余裕が出来たら、いずれ普段着にシャツの一枚でも作ってほしいと言ってくるのではないかしら」
「その為に今からアル殿下のシャツの為の布を物色しておくつもりなのですね!」
「アル殿下に作るお洋服ですもの。布も糸もボタンも全部自分で時間のある時にじっくり選びたいのですわ」
「乙女心ですね…素敵」
レナートは婚約者に向けるクローネの愛情にうっとりしながらレモン水で喉を潤す。
「馭者の方も荷物持ちと捉えて宜しいのかしら?」
「えぇ。彼は馬の扱いも上手だし、見ての通り力持ちなので。馬車はこちらに預けても良いでしょうか?」
「構いませんよ。ウチの客層の殆どが貴族ですから、従業員は馬車にも馬にも慣れてますし」
「では、今日は宜しくお願いします」
「はい。でしたら、時間も惜しいですし、そろそろ参りましょうか。布と糸をご所望という事でしたら、軽い糸からの方が良いのかしら?」
本来、刺繍や縫い物というのは布に合わせて糸を選ぶので逆の方が良いのだろうが、布を大量に購入し、それを持ったまま糸を買いに行くのはいくら力自慢でもキツいものがあるだろう。馬車ごと移動するつもりはないようだから、彼女は日傘を持って馬車から降りてきたのだろうし。
レナートも度々布を直接買って自力でそのまま持って帰るから判るが、布地は薄くて軽いものでも数買えばやはり重いし嵩張る。
「そうですね。布はともかく、糸の色に流行はありませんから、私の部屋にはたくさんの糸が揃ってます。ただ、この間拝見した黒い糸だけは実物を一刻も早く自分の目で見て確かめた上で欲しいのです」
ワンピースに合わせて靴も日傘も庶民的な品質の安物だからというだけではなく、隠しきれない品の良さはあるものの驚くほど庶民的な雰囲気を醸し出していて、しかもそれが不自然に見えないので、事情を知らない者から見たら類稀なる美少女ではあるものの高貴な令嬢と言うには確信が持てない。
クローネはアルフレートの婚約者に選ばれるほどの深窓の令嬢だ、お忍び慣れしている訳ではないだろうから、これは単純にリルカだった頃に自然と身に付いた村娘の経験値だろう。
「本来でしたら敬語を遣うべきなのでしょうが、遣わない方が宜しいでしょうか? クローネ様のその格好、お忍びですよね?」
「そうです。今の私は、クローネ様が懇意にしているメゾンの針子のリルカなので、そのようにお願いします」
店を出て、ぽん、と日傘を開いたクローネの横を歩きながら、レナートは生糸工場に案内した。
「こちらがアタシ御贔屓の製糸工場なの。王都どころか、他国の珍しい色まで輸入してるのよ。――特にこちらのシリーズなんて、鮮やかなのにちょっと渋味のある色合いが、何とも言えなくても素敵で…東洋的なカラーは、派手な金糸銀糸と組み合わせても不思議と品良く落ち着いた風情になるので、新たな表現が広がると思ってて、自分も見付けた時はつい買い込んでしまったくらいで」
「えぇ…! 本当、凄いわ。圧巻されますね、こんなにもたくさんの糸が並んでいるのは、リルカの時だって見た事ない光景だわ」
「それと、リルカさんが気になっていた新色の黒シリーズですが、前以って連絡しておいたので取り置きしてあるはず。――ねぇ、例の糸、あるかしら?」
「ちゃんと取り置きしておきましたよ。……と言っても、どの黒も五束ずつが限度でして……」
「構いません。希少な糸を五束ずつ取り置いて下さり、有難う御座います。……こうして束になった状態だけでも、光に翳すと艶がそれぞれの色の光沢を放ってとても綺麗…。見惚れてしまうわ」
「有難う御座います。……おいレナート、このお嬢ちゃんえらく美人だが、アンタは確か幼馴染の貴族令嬢と婚約したって聞いたぞ。まさか、この子がそうなのか?」
「いいえ、違うのよ。この子はリルカさんと言って、あのアルフレート殿下の婚約者、クローネ嬢が懇意にしているメゾンの針子なの。クローネ嬢の特技が刺繍なのは有名だから知ってるでしょう? リルカさんは御多忙のクローネ嬢に頼まれて、刺繍の為の糸や布を買いに来たのよ。この子が働くメゾンは王都じゃなくて地方にあるから、メゾンにも買い物を頼まれたらしくって、今日はとにかく王都で今流行ってる色の糸を大量に欲しいんですって」
「へぇ、そうなのか。しっかし綺麗な子だねぇ。おまけに見事な黒髪だ。クローネ様も大した黒髪の美少女って噂だが、リルカちゃんも負けてねーんじゃねーか?」
「やだ、お上手なんだから。私の顔なんて、その辺りを歩いてる女の子とそう変わりませんよ」
品良くではなく、カラリと笑うリルカは華奢で儚げな娘に見えても、流石王子様の婚約者に選ばれて長年研鑽しながら社交場で完璧な令嬢としてアルフレートの隣で微笑んでいただけはある。見た目のか弱さとは裏腹に中々豪胆だ。自分がそのクローネだとおくびに出さず、あえて口を開けて笑って流す。
各色五束の取り置きが限度だった黒糸を全て買い占めてしまうのは忍びない、と彼女は三束ずつ買い、他にもレナートが薦めた東洋的な渋味のあるニュアンスカラーの糸を全色二十束ずつ購入した。本職でもないのに、何とも豪気な買い物である。金と刺繍の才があり過ぎる公爵令嬢ならではの買い方だ。定番カラーの刺繍糸は実家の刺繍部屋の棚にたくさん残っているので、新たに買う必要はないらしい。
糸の次は布。布問屋に向かう足取りがスキップしているかのようなクローネに微笑ましさを感じるレナートだったが、贔屓の布問屋が見えてきた時、気の好い青年だが惚れっぽくしょっちゅう誰かに振られている跡取り息子の顔が脳裏に浮かび、ハッとしてしまう。
彼はシャノンに一目惚れして、暫くの間、大した用もないのに御用聞きにメゾンを訪れたり、休憩時間にはテイクアウトしてベンチや噴水に腰掛けて食べる事が多いシャノンに偶然を装って相席を試みたりしていたが、彼女には既に苦み走った色男の夫が居る事をとうとう知ってしまい、絶賛傷心中なのだ。
彼は大雑把なところがあるものの、優しいし顔も悪くない。跡取りだからと家の手伝いも積極的で、レナートとは比べ物にならないくらい孝行息子だと思う。ただ、欠点が少々惚れっぽいというだけで。
まだ失恋したばかりで、暫くはシャノンの事を引き摺るだろうと思っていたが、クローネはシャノン以上に可憐な容姿の美少女だ。クローネを一目見た瞬間、シャノンへの失恋の痛手を一瞬で払拭して新たな恋に落ちそうな気がしてならない。何せ本当に惚れっぽい事で近隣では有名なもので。
「あ、あのー、リルカさん」
「はい」
「実は……今向かっている布問屋には、若い跡取り息子が居るんですけど…」
「? はい」
「実はウチの針子のシャノンに一目惚れしてたんですが、シャノンに夫が居ると知って失恋したばかりで……。その、少しお調子者だけど気の好い子なのよ。ただ、如何せん惚れっぽい子で…」
「はい」
「失恋したばかりで傷心中だし、そんなときにリルカさんのような綺麗な女の子に出会ってしまったら、「失恋の傷を癒すには新しい恋だ!」とか何とか言って一目惚れするかもしれないの…。もしそうなったら、あの子の事だから必死で口説こうとしてくると思うのよ…」
漁村育ちの、ただの針子のリルカならば問題ないが、実際は王太子妃になられる公爵令嬢だ。知らないとはいえ、本来ならば庶民が易々と口説いて良い相手ではない。
「あぁ、そういう…。それは別に構いません。もしそうなったとしても、不快に思ったりしないので安心して下さい。そもそも私、漁村で暮らしていた頃は、自慢ではないけれど何人もの殿方に嫁に来ないかと口説かれてましたので、今更です」
「口説かれ慣れてるなんて、リルカさん頼もしいわね」
「まぁ、人並みには」
日傘の下で微かに苦笑する気配。
幼くして王子の婚約者に納まったクローネを堂々と口説いて来る貴族の少年は社交場に居なかっただろうが、漁村に流れ着いた記憶のない迷子の美少女という立場のリルカなら、その美貌だけで嫁にしたいと村の男達が思うには充分だったはず。中には恐らく、漁村での女仕事に不慣れなリルカの立場の弱さを突いて、強引に口説いてくる男も居たのではないか。
基本的には善良な村人で構成されていたようだが、中には血気盛んな男盛りも居ただろうし、リルカの保護者は老夫婦だったと聞く。彼女が針子として働きに出たのは、自力で稼げないと、いずれ村の中でも有力な稼ぎ頭や村長の息子辺りに手籠めにされてもおかしくなかったからだろう。
男あしらいが上手いならそう心配する事もないかもしれないが、レナートにとっては婚約者の友人で王太子妃になられる令嬢だ。守れる範囲で守らねば。
「あ、あの、リルカさん! こっちにもとっておきのコットンとサテンが揃ってるんだけど、見ますか?」
「有難う御座います。是非拝見させて下さい。肌触りの良い木綿は幾らあっても足りませんから」
「そ、そうですね! 色無地も柄入りもお好きなだけどうぞ! 欲しい布があれば言って下さい、好きなだけ裁断しますので!」
「まぁ、御親切にどうも有難う御座います」
「い、いえ! これくらいお安い御用ですよっ!」
「……」
予想を裏切らない展開に、レナートは思わず半目になった。「まだこんなに好きなのに…。夫が居ると判った今でも好きな気持ちが色褪せない…、暫くシャノンさんの事しか考えられない……」と落ち込んでいたくせに、この変わり身の早さは何ぞ。
素朴な針子に扮した主に露骨なアプローチを仕掛けている惚れっぽい若者の純情さを、メイドも馭者も表向きは愛想よく、内心では同情混じりの呆れた目で見ている。
クローネが婚約者のアルフレートと何年も仲睦まじく相思相愛のカップルというのは、世間向けの顔ではなく事実なので、今更ポッと出の男に口説かれたくらいでグラつくはずがない事をメイドも馭者もよく理解している。アルフレート一筋の主を口説いたところで時間を無駄にしているだけなので、ある意味クローネに言い寄る男に同情の念さえ生まれるのだとか。アルクロ、っょぃ。
天井近くまである棚にズラッと陳列するロール状の布の数々に圧倒されていたクローネも、嬉々として布を選んでいる。刺繍が得意なだけあって、プリント柄の入った生地よりも色無地を好むらしく、最初から用途別のサイズに裁断して布端を処理したハンカチやスカーフなども大量購入していく。特にハンカチは日常的に何枚も使うから、どれだけあっても困る事はない。
「刺繍がお得意なんですか! 凄いなぁ…。針仕事が上手な女の子って、とても素敵ですよねっ!」
「ふふ、有難う御座います。実は針子としてはまだまだ修行中で…」
「何なら、リルカさんの勤めてるメゾンまで僕が配達しますよ!」
「お仕事熱心なんですね。ご両親も鼻が高いでしょうね」
決して相手の好意を否定せず、さりとて気付いていると見せない無難な切り返し。
「こちらの黒いシルク、素敵ですね。手触りも色艶も極上のシルクだわ…」
「それ、結構値が張るんですけど、良い生地なんですよ! リルカさんの黒髪みたいに綺麗ですよねっ!」
「お上手ですね。こちら、シャツを…二枚分作れるくらい欲しいわ」
「は、はい! シャツ二枚分くらいですね!」
「恋人に、黒いシャツを作ってあげたいんです。失敗してしまっても作り直せるように、少し多めに欲しいので」
「えっ」
「どうかしました?」
「え、…えっ……こぃ、こい、びと…?」
「えぇ。…とても…、とても大好きな人なんです。遠く離れた町に出稼ぎに行った私の事を、音沙汰がない間もずっと待ち続けてくれた人なの」
「そ……うなん、ですか…」
「えぇ、そうなの。ずっと前に婚約もしたので、早くあの人のお嫁さんになれるよう、頑張らなきゃ」
「……!」
(うわぁ…。天使のような微笑みで、とどめを刺したわ)
しかし、報われない恋なのだと早めに突き付けた方がさっさと次の恋に切り替えられる分、良心的ではある。実らぬ恋と知らなければ期待もする。そうして何日もズルズルと期待し続けて時間を無駄にしてしまうくらいなら、早めに望みがない事を突き付けられた方が良い。
本来なら真綿に包まれるようにして丁寧に育てられた箱入りだろうに、不可抗力とはいえ四年ばかり庶民的な暮らしに身を投じた経験値とでも言おうか、男のあしらい方が妙にこなれている。リルカとして過ごした期間に、必要に迫られて会得したのだろう。
王室に入る事が幼くして決まっている令嬢ほど、身内と婚約者以外の男性と親しくならないように周囲も気を遣って距離を取らせるものだ。
弟嫁のロザンナも男に口説かれるのなんて日常茶飯事に見えるゴージャス系美女でありながら、社交辞令的な口説き文句には多少耐性があるものの基本的には男慣れしておらず、実際は見た目よりずっと初心な少女だ。元々は彼女こそが王太子妃になる予定だった令嬢なので、もしかしたらクローネよりも箱入り育ちかもしれない。
「この黒いシルク…きっとあの人に似合うわ。型紙用紙もあれば欲しいのですが」
「……はい…型紙用紙ですね…。当店の取り扱いサイズは10展開ありますが、シャツならこれくらいの大きさが妥当かと思います…。こちらのサイズで宜しいでしょうか……」
さっきまでの浮かれた様子が嘘のように、風前の灯みたいに元気がない。判り易過ぎるが大丈夫かその接客態度。
「そちらを…、そうね、失敗したらいけないから、三枚ほど頂けると嬉しいわ。シャツの他にも作りたいものがあるので」
失恋したばかりの彼の様子はあからさまだったが、あえて気付いてない素振りで婚約者への恋慕を隠さず無邪気を装う彼女は、傍から見ると悪質かもしれない。けれどそれが、応えられない、応える気もないクローネが出来る、一刻も早く次の恋へ移れるようにという気遣い。
「リルカさん、そろそろお会計にする? 一度にそんなに買ったら、使い切れず流行遅れになってしまうわよ」
「そうですね。こんなにいろんな種類の布や糸を見ると、ついあれもこれもと欲張ってしまって…いけないわ。予算内に纏めないと」
ちゃんと予算を組んで買い物に来ているらしい。偉い。
「こちらの飴色の財布がクローネ様用の予算、こちらの蔓草模様の財布がメゾン用の予算、そして私が持ってる小さなラベンダーピンクの財布がリルカ個人のお小遣いです」
クローネ用の財布は、一流の職人が手掛けたのだろうと一目で判るほど上質な牛革を使った財布で、経年による飴色の艶が美しく、公爵令嬢の買い物を任された使用人の手に相応しい逸品だ。
メゾン用の財布は建前で急遽用意しただろうから傷一つない新品だけど、メゾンから頼まれたお使い用という嘘に信憑性を持たせる程度には見栄えが良く、特に蔓草模様の刺繍もメゾンのオーナーらしいセンスの良さが伺える。
一方、リルカ個人の財布だけは明らかに庶民的で安っぽく、その辺の雑貨屋などで気楽に買えそうな作りだ。やや使い込まれて草臥れた感じや、若い娘が好みそうな色なのに薄汚れた部分など、生活感が滲み出ていた。
恐らく、この小さな財布を実際に四年間も使ってきたのだろう。リルカは。
「可愛いお財布でしょう? おばあさんが作ってくれたお財布なんです。金具を取り付けてくれたのはおじいさん……」
本当は、リルカの持ち物は処分してしまった方が後々の為に良いのだろう。王太子妃になる令嬢の私物としてはあり得ないほど安物で、作りも雑。けれど、クローネは麦わら帽子もワンピースも、捨てられずに未だ大切にしている。財布も同じように。
ラベンダーピンクに鍍金の金具。財布の中にはリルカがメゾンから受け取った最後の給料が丸々残っているが、シャツ二枚分のシルクと三枚の型紙用紙がギリギリ買えるだけの金しか入っていない。リルカとしての最後の仕事は、高貴な恋人へのシャツを一枚作るだけ。たったそれだけの仕事に、ひと月分の給料をほぼ費やす事になる。
それをするのだと躊躇いもなく真っ先に小さな財布の口を開けて最初の会計をする黒髪の少女の横顔は、誇らしげに輝いてとても美しい。
「本日は有難う御座いました、レナートさん」
「いいえ。こちらこそ、案内だけでなく、有意義な会話も出来て光栄でした。クローネ様のお陰で新たなデザインも思い付きましたし、早速デザインを起こして試作してみたいと思ってるところで」
「まぁ。レナートさんのお仕事の時間を奪ってしまうだけの午後にならずに済んで良かったですわ。キュカさんにも宜しくお伝え下さい」
水色のワンピースと三つ編みのままなのに、完全に雰囲気を公爵令嬢のものへと変えたクローネと挨拶を交わす。
キッチリ予算内に買い物をしたしっかり者の令嬢だが、やはり金持ちの買い物なだけあって、紫檀の馬車の中は女性二人がゆったり座れるだけのスペースは確保出来ているものの、袋や紙に包まれた布や糸でぎっしり埋まっている。圧巻である。
「今日のお礼は、また改めて。皆さん、ごきげんよう」
緩やかに車輪が回り、馬車が走り出す。それを見送って店内に戻ったレナートは、宣言通り早速クロッキー帳を広げてデザインを起こし始めた。
クローネと数時間共にした目的の一つは、彼女のドレスを作る為だ。彼女が王室に嫁ぐ際に持って行くドレスの幾つかを、メゾン・ヴァージニアで手掛ける事に決まってから、レナートは出来れば彼女を間近で見て、よく観察したいと思っていた。もっと欲を言えば、直に会話したいとも。
しかし、クローネは忙しい。四年の空白がある分、勉学の他、王太子妃になるにあたって、行方不明前に受けていた授業や礼儀作法のレベルも密度も上がっている。そんな彼女に、王室からの依頼と言っても、激務の合間にたくさんの時間を取ってもらえる訳がない。
けれど、レナートとしても一端の職人だという自恃があり、王室に嫁ぐ令嬢に作るドレスだからこそ、彼女に似合う相応しいものを、と思う気持ちはとても強い。
そんな時に、向こうからのご指名で街の案内をしてほしいという誘いだ。どんなにスケジュールが詰まってようが、王室からの依頼は最優先(心意気としては、常にキュカを最優先したいところだけど)。これに乗らない訳がない。
結果的に、やはり午後の予定をクローネの買い物に付き合った事は大いなるプラスに働いた。何せレナートとクローネは歳の差がある分、まだ騎士見習いとして登城した事があった頃ですら、第二王子の婚約者と接する機会などほぼなかったので。
アルフレートの婚約者は、間近で見れば全体的に華奢で可憐で、それでいながら口元の小さな黒子や濡れたような琥珀の瞳、少し日に焼けた肌が色白の肌にはないエキゾチックな色香を醸し出し、少女特有の清潔感と甘い匂いがほんのり香る。キュカにも言える事だが、この年頃の女の子は成長が早い。
クローネを構成する魅力をつぶさに観察した事で、彼女に似合うドレスのデザインが湧き出てくる。今、自分の脳内に溢れる全てのデザインをクロッキー帳に描き出すまで、今夜は眠れそうにない。
後日、妙に厚みのある綺麗な封筒がメゾンに届いた。クローネからである。
花束が描かれた封筒と揃いのデザインの便箋には案内を感謝する旨の他、キュカのウェディングドレス作成に当たって、自分も恩人であるキュカへの感謝を込めて刺繍の一つを手掛けさせていただけないか、という内容で驚いたのだが、もっと驚いたのが同封されていたハンカチに施された刺繍の緻密さ。ワンピースの裾も凄かったが、ハンカチは今の技量の全てを詰め込んだのだろう、もっと凄かった。
漁村で暮らした四年の間に動物と身近に接する機会が増えたらしい令嬢は、海産物と猫が特に上手い。リアル過ぎると可愛げがなくなるので、あくまでも刺繍の技術を支える程度にデフォルメされたデザインで刺された猫が魚を狙う画は、動物系の刺繍にはそこそこ自信のあるエリザベスを感嘆させたと同時に、ライバル心も芽生えさせる結果となった。
本職顔負けの上手さに、彼女の刺繍の趣味が「趣味」という範囲を超えている事が目に見えて証明された訳だが、彼女が本当にただの針子のリルカであれば雇いたいと思えるほどの技量を前にしても、レナートはキュカのウェディングドレスだけは刺繍も全部自分がやると最初に決めた決意を翻す気は更々なく。
見事な刺繍のハンカチを額に入れて仕事部屋に飾らせてもらう事、キュカのドレスは全て自分が手掛けたいので申し出は有難いけれど丁重にお断りする旨を綴った返事を出したレナートは、暫くの間クローネのドレスに刺す刺繍のデザインに頭を悩ませるのだった。
婚約するのは正真正銘これが初めてです 楸こおる @kooru
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