【KAC】或る亡き友へ

譚月遊生季

或る亡き友へ

 戦後。復興のきざしが見え始めた時節。

 男は、ぶらりと熱海あたみの書店を巡っていた。


 彼の作品が本屋に並ぶようになって、もう随分ずいぶんと経つ。つい10年ほど前は軍部によって作品の連載を止められたというのに、今や文化功労者。その芸術性の高さから、彼の作品は多くの人に親しまれている。


 ふと、その視線がひとつの本に向かう。

 装丁そうていも、タイトルにも、嫌というほど見覚えがあった。

羅生門らしょうもん」……と。


 表紙はところどころがり切れ、紙も日に焼けた見るからに「古書」だが、それなりに値は張っている。さすがは「友」の作だ、と、男は懐かしさと共に感嘆の吐息を漏らした。


 その筆者は、既にこの世にいない。

 男の誕生日に、自ら命を絶ってしまった。


 友の名は芥川龍之介。

 男の名は谷崎潤一郎。


 谷崎は年老いてなお次々に作品を発表しているが、芥川の新作は、もう、二度と生まれない。


 芥川は、谷崎と文学論を戦わせた後に命を絶った。……しくも、谷崎の誕生日と同じ日に。

 それゆえに、何かと邪推じゃすいをされることも多い。

 ……けれど、友であった谷崎だからこそ、分かる。


 彼の死の原因は、分かりやすくひとつにまとめられるほど単純ではない。

 けれど、白樺しらかば派の志賀直哉が「『仕方ない事だった』というような気持がした」と言うほど、仕方がないことだったとも思えない。


「君はね、いつもそうだった」


 古びた表紙を撫でながら、老いた文筆家は独りごちる。


「格好付けなんだ。自らを隠して、より良く見せようとして、本音も弱音も、全部胸のうちに隠してしまう」


 文壇ぶんだんでの論争中でさえ、谷崎は芥川に彼の家に引き留められ、夜通し語らったことがある。他にも、谷崎が欲しがっていた本を、芥川が自らの蔵書から送ってくれたことも。

 彼らは、最期まで親友だった。少なくとも、谷崎はそう思っている。


「君は既に死ぬつもりで、遺言のつもりで論じていた。僕はそれに気付きもせず、面白い喧嘩ができると思っていたぐらいだった」


 谷崎のスカーフを褒めたウェイトレスにチップを払ったと、得意げに随筆ずいひつに書いた芥川。

 谷崎がタキシードに着替えた時、わざわざ立ってボタンをめるのを手伝ってくれた芥川。


「聡明で、勤勉で、才気煥発で、しかも友情にあつくって、外には何の申し分もない、ただほんとうにもう少し強くあってくれたらば」──芥川の死後、谷崎は彼をこう評した。


 芥川は最期まで助けを求めなかったし、谷崎は芥川の深い絶望に気が付かなかった。

 スランプのまま芥川は命を絶ち、谷崎はスランプを乗り越えて文化功労者にまで昇りつめた。


 同じ老いた顔で。

 同じ古書を手に取って。

「いやぁ、懐かしいね」と、笑い合えたなら。


 ……そんなことを願ったところで、故人は二度とかえらない。


 男は手に持った古書を置き、再び歩き始めた。

 まだまだ、彼の頭の中には構想がある。書きたいものは山ほどある。いつまでも、過去に後ろ髪を引かれてはいられない。


 その後、谷崎潤一郎は最高傑作とも呼ばれる「瘋癲ふうてん老人日記」をあらわし、約80年の生涯を終えた。

 墓は分骨され、慈眼寺じげんじにて、芥川龍之介と背中合わせに眠っている。

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