ビニールに包まれた思い出

権田 浩

ビニールに包まれた思い出

 四畳半の狭い部屋に、割れんばかりの蝉の声。古いエアコンは温い吐息を漏らすだけの役立たずで、ガタガタ震える扇風機だけが頼り。全開にした窓から入ってくる、神田川の湿気と鉄道の音に包まれて二人、部屋を半分近く占拠した机に向かっている。


 新しい絵の構図を模索しているぼくの隣で、小説を書いていた彼女の手が止まった。うつむいた横顔は長い黒髪の奥に隠されていて表情は窺い知れず、微動だにしない。まるで魂が別の世界に行ってしまったかのようで、出会ったばかりの頃はいちいち心配してしまったけれど、今では慣れたもの。ただ肩を揺するだけで、ぼくの世界に呼び戻せる。だが、それはすまい。いま彼女がどこにいるのか知れないけれど、きっと夢中になるような場面に立ち会っているに違いないのだ。


 無意識に笑みを浮かべていた自分に気付いて口元を引き締め、さてと手元に目を戻し、新しい線を引こうとした瞬間、ふいに彼女がつぶやいた。


「悲しいよね。創作には果てがないのに、自分にはあるなんて」


 顔を上げるのと入れ違いに彼女は執筆を再開していて、それで機を逸したのだけれど、口を開いたところで何が言えただろう――。


 彼女の出版された唯一の著作を神田の古本屋で見かけた時、白昼夢のようにありありと蘇ったのはそんな何気ない場面だった。ビニールに包まれた背表紙を指でなぞり、永遠と信じて疑わなかったあの暑い夏と彼女の思い出さえ、時とともに触れ得ぬものになってしまうのだということを、しみじみ感じ入る自分に苦笑する。


 彼女をぼくの世界に呼び戻すことは、もうできない。

 ずっとずっと、遠く離れてしまったから。

 それとも、ぼくのほうが遠くへ来てしまったのか?


 色褪せた微かな感傷を胸に、ぼくは取りかけた本をそっと押し戻した。気まぐれに古本屋へ入ってしまったが今日は絵の具を買いに来ただけ……所詮はビニールに包まれた思い出だ。

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ビニールに包まれた思い出 権田 浩 @gonta-hiroshi

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