東京タワーを登った古本屋

猿川西瓜

お題「本屋」

 歯がぼろぼろになった頃の芥川龍之介。もしくは直木三十五の顔に似ているその古本屋の店主は、地下鉄に大きな広告を出していた。

 まだ午後五時に僕の仕事が終わっていた頃の話だから、随分と前だ。


 帰り道にあるその大阪谷町の古本屋の品揃えは良かった。僕は良いお客さんだったと思う。いつも入店すると、僕一人だった。実家暮らしのサラリーマンだったので、お金は不自由しなかった。

 好みの本を、直木三十五似の店主に言うと、その翌週には、その本のジャンルに似たものが店頭にずらりと並んでいたりした。例えばラカンに興味があると言うと、フロイトとかデリダが並んでいた。例えば岩野泡鳴が好きだというと自然主義作家らが並んだ。

 店内は裸電球がオレンジ色に光って、隙間風に揺れていた。かかっている曲はブルースのようだった。後にポール・バターフィールドだと分かった。


 新書が並ぶ棚に、『青尹信吾』という名前の作家が書いた『東京タワー』というタイトルの本が並んでいた。白く、優しげな本で、ぱらぱら捲って読んだ。文字をよく見ると青色に印刷されていた。紙はとても薄いベージュで、手触りが上品だった。内容は、悩める青年のぶっきらぼうで、不器用で、自我肥大の中、どう生きるか考える話が書かれていた。なんだか懐かしかった。

 そうやって悩むこと自体が過ぎ去った昔の話だった。今は悩んでいない自分を少し好きでいる。

『東京タワー』の本は、五冊ほどまとまって本棚に置かれていた。

「この本、いっぱい並んでますね。同じ本ばかり売った人がいたんですか?」

 店主に話しかける。

「ああ……うん」

 あいまいな返事だった。いつも無愛想なので、別に気にならなかった。僕は買わずに、本棚に戻した。


 それから、一年半くらい経った。その間、僕は五時までの仕事時間が六時までに延びたり、年下の友達が作家デビューしたり、雨がとても冷たかったりした。

 冬の雨の中、久しぶりに古本屋に行くと、本の数が目に見えて減っていた。少し嫌な予感がした。店主には深く聞かず、金ぴかの装丁がされた号の雑誌『遊』を買った。数日後、また雨が降って、本屋に行った。

 店の中心に並ぶ本はほとんど無くなっていて、段ボールの山が屋根裏に積み重なっているのが見えた。どうやってあそこまで上げたのだろう。

「どうしたんですか。本が無くなってませんか」

「ああ、閉店するんだ」

 僕は、そうですか、と頷いた。

 かなりつらくなった。

 帰る時間が六時になって、転職しようかと思ったけれども、別にどこかに移ろうと思う気力もなく、ただ生活を続けてきて、本だけが、この読み切れない本だけが、ただの一つも変わらずあるものだと思っていた。こんな汚い、誰かが読み捨てた本を売りながらでも、どうにかこうにか生きていける。古本屋というよくわからない職業が成り立っていること。それが、やっていけなくなって、なくなってしまうことが、どうしてもつらかった。裸電球のオレンジ色が消されていて、蛍光灯の白い色に変わっていたのも、ショックだった。本の表情が、みなそれぞれの化粧をしていたのに、全部すっぴんになったような気がした。


 僕はいつも買おうとして買わないでおいた本まで買った。近松、西鶴、芭蕉の分厚い全集本を一冊ずつ買った。本を入れたビニール袋が破れそうだったので、二つに分けて貰った。まだビニール袋が無料だった時代だから。

 最後に、また新書の棚を見た。絶対買わない佐伯啓思のPHP新書まで買った。この新書の匂いとすべすべした手触りが良くて、ちくまプリマー新書くらい好きだった。

 その隣に、『青尹信吾』の『東京タワー』があった。薄く青い字で東京タワーとあるだけのシンプルな表紙だった。本を包むグラシン紙は、もう一度本棚に戻したら破れてしまいそうだった。

「この本、気になるんで、買おうかな」

「その男は、警察に捕まったんだよ。俺がよく知っている男だ」

 その時点で、青尹信吾はこの古本屋の、直木三十五みたいな顔をした店主本人だと、直感的に分かった。男は年を取ると、自分のことを、ある男の話として仮託して語るものだからだ。

「東京タワーに全裸で登って、逮捕されたんだよ」

 店主は笑った。

 そう言われた瞬間に思ったことは、ごくシンプルなものだった。

 ――僕にもできるだろうか。

 Twitterや他のSNSが今ほど炎上騒ぎを起こしていない頃だったから、たぶんそう考えた。

 肩からビジネスカバンを下げながら、破れそうなパンパンのビニール袋に『東京タワー』を詰め込んだ。

 もうこれ以上入らないので、PHP新書はカバンの中に入れた。

「でも、通天閣に全裸で登っても、あまり騒がれそうにないですね」

 僕はそう返したが、なにが「でも」なんだよと今は思う。店主は本屋の中でタバコを吸いながら、黄色い歯を見せながら口角を上げた。


 両手に持ったビニール袋を片手にまとめて持って、傘を差して、白い息を吐きながら帰った。

 古本屋から出る際、いつかまたどこかでと挨拶をした。もちろん、今も直木三十五似の店主とは再会していない。直木三十五記念館が、あんなにも近くにあるのに。

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