珈琲を淹れる本屋

南山之寿

珈琲を淹れる本屋

「いらっしゃいませ」


 店主と思われる初老の男性が、静かに声をかけてくる。会社帰りに立ち寄った本屋。商店街の一角に新しくできたようだ。私は帰り道の途中、ふらりと足を踏み入れていた。お世辞にも、広いとは言えない店内。小さなカウンターと、本棚が四つ並んでいる。


 様々な本は店主の性格と感性を表すかの様に、静かに並んで本棚に腰を据えていた。流行りの本ではなく、店主のこだわりの本と言ったところだろうか。見たことの無いタイトルばかりが並んでいる。


「こちらにお座り下さい。いま、珈琲を淹れますので」

「あの? 頼んでいませんが……」

「いえ、このお店に入店できた方には、サービスで淹れておりますので。ご遠慮なさらずに」


 珍しい本屋だなと、私は感じていた。ただ、店主の言葉がひっかかる。『入店できた』とは、どういう意味があるのだろうか。


「こちらに並んでいる本は、見かけない本が多いですね」

「ええ。自費出版で、様々な方の本を取扱っておりますので。ここでしかお目に掛かることはないかと思います」


 淹れたての珈琲を飲みながら、私は店主の話を聞いていた。本を買えるのかと聞いたが、売物では無いという。しばらくすると、自費出版のノウハウ的な資料を渡された。興味もないうえ、多額の費用を請求されるのではないかと怖くなり、私は逃げるように本屋を後にした。


◇◇◇◇◇


「今日も、いい本を仕入れることができた……。珈琲を淹れ、飲んでいる間に、その人間の記憶や経験が文字になる……。わしの悠久とも言える時間を潰すには丁度良い。さて、明日にでも読むとするか……」


 店主は笑いながら、持っている本を眺めている。本にタイトルの文字が、静かに浮かんでくる。


『南山之寿の日々是決戦』


「失敗だらけの哀しい人生も、視点を変えれば笑える人生になるもんだ……」


 あらすじに軽く目を通し、それから、店主は静かに本棚に本を置いた。



 


 

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