夏毛の季節【KAC2023】

近藤銀竹

夏毛の季節

 和菓子屋のある坂を登り切ったところに、その本屋はある。


 毎週金曜日の朝、開店と同時にそこで週刊誌を買うのがわたしのルーティンだ。

 結婚、出産、子供の独立。正社員のまま子育てができたのは、夫の家事への協力が大きい。

 しかしある日、メンタルの調子を崩してしまって休職した。「回復には運動がいい」となにかで読み、少しずつ身体を動かそうと、子供の頃に読んでいた漫画週刊誌を毎週自力で買いに行くことから始めたのだ。


 暖かくなり始めた風を背に、坂を登る。

 時間帯が一緒なら、見慣れたものも出てくる。

 緑のオープンカー。

 紫の軽トラック。

 そして、お婆さんに連れられたフカフカな毛並みの柴犬。


「?」


 別に挨拶をする仲でもないのだが、ある日、柴犬の毛がボサボサになっていた。


「おはようございます」


 視線に気づいたのか、お婆さんが挨拶をしてきた。


「おはようございます。あの、ワンちゃんの毛は……?」

「ああ、生え変わりの季節なんです。これから夏毛になるんですよ」


 お婆さんが愛おしそうに愛犬に視線を落とす。


「生え変わるんですか……」

「これからの季節、冬毛は暑苦しいですからね」


 会話はそれっきり。

 会釈を交わすと、お婆さんとすれ違う。

 しかし、挨拶をする相手ができたのは少し嬉しい変化だ。


 本屋にたどり着く。


「いらっしゃいませ」


 いつもの挨拶。

 イケメン……だったに違いない、ダンディな老齢の店主が出迎えてくれる。

 店主に軽く頭を下げると漫画雑誌のコーナーへ向かう。


「あら……」


 途中の書棚の変化に気づき、思わず足を止めた。

 いつもは黒とどぎつい色のいかがわしい背表紙が並んでいる書棚が、パステルカラーに変わっていた。

 まるで冬を耐え忍んだ寂しい木に、花が咲いたみたいだ。

 思わず題名に目を走らせる。


 教科書と、参考書だ。


「新学期前は高校の教科書を扱ってるんですよ」

「なるほど」


 真新しい背表紙の向こうに、新しい学校生活を始める高校生の清々しい笑顔まで見えてきそうだ。


 ふと、さっきの柴犬の姿を思い出す。


 犬の毛だけじゃなく、本も生え変わるのね。


「春だこと……」


 一瞬、口元を緩めるとパステルカラーの花畑を後にし、お目当ての漫画週刊誌を買って店を出た。


 暖かな風はいつの間にか潤いを帯びていた。

 気が早い桜の花びらがひとつ、空を泳いでいく。


 わたしの心にも微かな暖かみが戻ってきたのかもしれない。

 心に厳重に着込んだ冬毛が、むずむずする。


 生え変わったら、何をしよう?


 みんな、動き始める。

 夏毛の季節がやってくる。

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