あの頃へ
和辻義一
とても懐かしくて、優しくて
それは、とある海沿いの田舎町にある古本屋だった。
古い商店街の中にある雑居ビルの二階にあって、さほど広くもない店内。一般的な家屋に例えれば、おそらくは十畳分ほどのスペースしかないだろう。俺が通っていた高校の通学路の途中にある店だった。
久方ぶりに地元へ戻ってきて、まだ店があったことに驚いた。俺が通っていた当時から、お世辞にも繁盛していた店だとは言えなかったが、本屋と名の付く店が相次いで不況に喘ぐ昨今、最後にこの店を訪れてから十年の月日がたった今でも当時のままの姿を残していたのは、ちょっとした奇跡と言えただろう。
つい懐かしくなって、雑居ビルの階段を上がり、当時のままの重くて古びたドアを開けて店内に入る。あの頃と全く変わらない、店内に漂う古本屋独特の匂い。限られたスペースの本棚に収まりきらず、あちらこちらに溢れている本の山。
「あら……ひょっとして、
思いもしなかったその声に、本日二度目の驚きを覚えた。俺の名前は
店のレジにいたのは、三十歳を少し過ぎたぐらいの女性だった。サイドアップに結んだ長い黒髪、知的で優しげなまなざし。やや痩せ型でスタイルが良く、女性としては少し背が高い。クリーム色の縦ニットのセーターに、少し褪せた色のジーンズ姿だった彼女は、俺の記憶に残っていた姿からは少し疲れた感じに見えたが、その他はほとんど変わっていない。
「あー、えっと……お久しぶりですね、
「ちょっと、なぁに……何だか随分と他人行儀な感じね」
そう言って夏奈さんはクスクスと笑った。
確かに昔は、お互いにもう少し砕けた調子で話をしていたように思う。三歳年上の夏奈さんは、中学生だった頃の俺にとって憧れの女性だった。
時々実家の手伝いで店のレジに立つ夏奈さんと少しでも話がしたくて、この店には何度となく足を運んだ記憶がある。そのせいで、ろくすっぽ読みもしない古本が部屋にうずたかく積まれて母親に苦言を
何となく気まずくなった俺は、店の中に並ぶ古本に目を向けた。
「この店がまだ残っていたのにも驚きましたけれども、何で夏奈さんがこの店に?」
そう口にしてしまってから、自分の迂闊さに気付いた。この店の店主――夏奈さんの親父さんから最後に聞いた話では、彼女は結婚して東京で暮らすことになったというものだったからだ。
案の定、夏奈さんは少し気まずそうな笑みを浮かべて答えた。
「えーっと、その……いわゆる出戻り組ってやつ? 今は特にすることがないから、昔みたいにお父さんの手伝いをしているの」
これまでに何があったのかを聞くつもりは、全くなかった。その問いはおそらく夏奈さんを傷つけるだけで、何の生産性も無い行為だと思う。
「俺と同じですね」
「えっ、それってどういうこと?」
少し驚いた顔で、夏奈さんがじっとこちらを見つめてきた。その眼差しが、俺には少し気恥ずかしかった。
「俺もつい先日、会社を辞めてこっちへ戻ってきたんですよ」
過去の出来事を思い出し、それを口にするのは少しためらわれた。人間誰だって仕事で苦労はするものなのだろうが、寝食も忘れるほどにあくせく働き、それで精神を病んでしまうようではどうしようもない。
そんな俺を見て、夏奈さんは優しい笑みで何度も頷いた。
「そっかそっか、由くんも色々と大変だったんだねぇ」
少し間延びしたような夏奈さんの口調が、とても懐かしかった。そして、その声の響きが心に染み入るように優しく感じられた。きっと夏奈さんにだって、色々とあったであろうはずなのに。
そのせいか、不覚にもほんの少しだけ、涙腺が緩んでしまった。
「ちょっと由くん、急にどうしたの?」
「はは……いや、何だかちょっとほっとしたっていうか、懐かしいっていうか」
正直な気持ちだった。会社勤めをしていた時には、いつも誰かに叱られ、追い立てられていた。今の自分をありのままで認めてくれる人なんて、せいぜい両親ぐらいしかいないものだと思っていた。
「何それ、変な由くん」
何とも困ったと言いたげな苦笑を浮かべて、夏奈さんがため息をついた。俺は服の袖でごしごしと目をこすってから、自分でも少し驚くぐらいに大きな息を吐いて言った。
「十年前にタイムスリップした気分ですよ、まるで」
「……そうね、それは私もおんなじ」
「親父さんは元気にされているんですか?」
「ええ、ぴんぴんしているわ。今日はお友達と一緒に、船で釣りに行っているの」
「そうですか」
本当のことを言えば、もっと色々と聞きたいことがあった。もっと色々と聞いて欲しいことがあった。きっと夏奈さんのことだから、望めば全てに応えてくれそうな気がした。
でも、そこから先の言葉が続かなくなった俺は、ぼんやりと頭をかきつつ夏奈さんから視線を外した。
「えっと、その……また、来ます」
店に来てまだ数分とたっていないのに、何とも変な物言いだと自分でも思った。
夏奈さんは一瞬呆気にとられたような顔をして、それからぷっと吹き出した。
「ええ、また来てね。待ってるから……でもまあ、今となってはゲーテとかヘーゲルとかって
悪戯っぽい笑みを浮かべて、右目でウインクをする夏奈さん。俺は全てを見透かされていた子供のように気まずくなって、軽く首をすくめてしまう。
「由くん」
店のドアを開けかけた時、背後から夏奈さんの静かな声が聞こえた。
「君の人生、まだまだこれからよ。生き急がなくてもいいの。ゆっくりと考えながら、少しずつ前に進みなさい」
「ちょっと意外だな……随分と年寄りじみたことを言うんですね」
そう口にしながら振り返ると、夏奈さんは案の定、柳眉を逆立ててこちらを睨んでいた。
「失礼ね、これは私がお父さんから言われたことよ」
「なるほど……それは、その、ごめんなさい」
「うんうん、分かればよろしい」
最後に昔と変わらない夏奈さんの笑顔を確認してから、俺は店を後にした。
大学に進学して、都会で何とか仕事を見つけて、ただがむしゃらに働き続けて――その結果、手に入れたもの全てを失って、またここに戻ってきた。ついさっきまでは、そう思っていた。
でも、今は違う。失ったと思っていた宝物が、偶然にも手元に戻ってきた気分。あの頃へ戻れたようで、何とも嬉しかった。
海の方から吹く風に乗って、潮の匂いが俺の鼻先をくすぐった。実家へ戻ってからも何度となく嗅いでいた昔なじみの匂いに、特段これといった感慨などはなかったのだが、夏奈さんの顔を見た後ではすべてが懐かしく、そして愛おしく思えたのが不思議だった。
あの頃へ 和辻義一 @super_zero
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