泥蓮洞主人の横顔【KAC20231 お題「本屋」】
蓮乗十互
泥蓮洞主人の横顔
泥蓮洞を訪れたと主張する者の証言は要領を得ない。ある者は、
時が来なければ、泥蓮洞を訪れることはできない。しかし時が来れば必ず扉は開かれる。何か大切なものを得て店を出た時、店は姿を消し、客の記憶も風に吹かれた砂絵のように歪んでゆく。そう信じられていた。
店内は電球の色。古い木組みの書架が入口から四列並ぶ。奥に木製の脚高机があり、斜めを向いた椅子に年配の男──泥蓮洞主人が腰掛けていた。主人の横顔は、明治時代の一時期この街に棲み、生涯この街を愛した文豪のそれによく似ていた。
主人は斜めを向いたまま言った。
「世界はね、私たちの思いどおりにはならないよ。その最たるものが他人の心だ。そうだね、この辺りの本が参考になる」
まるであらかじめ用意していたかのように、カウンターに積んだ本を押しやる。ケアセラピー、初期仏教、絵本。
気がつくと、彼女は正門から研究室に向かって歩いていた。手には三冊の古書。それがその後、彼女を変え、学生を変えることになる。
翌春、学生は見事な論文を書き上げて卒業した。雑居ビルの1階は、今も以前と変わらず自動車学校の案内所だ。榛名は次の学生指導に励んでいる。
泥蓮洞主人の横顔【KAC20231 お題「本屋」】 蓮乗十互 @Renjo_Jugo
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