泥蓮洞主人の横顔【KAC20231 お題「本屋」】

蓮乗十互

泥蓮洞主人の横顔

 松映まつばえに棲む読書家ならば、古書肆こしょし泥蓮洞でいれんどうの噂を耳にしたことがある筈だ。この街のどこにあるのか、誰も知らない。本当に存在するかどうかもわからぬ幻の古書店だ。


 泥蓮洞を訪れたと主張する者の証言は要領を得ない。ある者は、央梁おうはし川西端、澄鶴すんず湖大橋北詰の橋脚の下だという。またある者は、畑山遺跡の復元住居の中だという。どちらも店舗を営むことがあり得ない場所で、ただコンクリートの護岸、丘陵中腹のわずかな平地があるばかりだ。


 時が来なければ、泥蓮洞を訪れることはできない。しかし時が来れば必ず扉は開かれる。何か大切なものを得て店を出た時、店は姿を消し、客の記憶も風に吹かれた砂絵のように歪んでゆく。そう信じられていた。


 澄舞すまい大学で文学を教える竹下榛名はるなに扉が開かれたのは、学生の指導に頭を悩ませている時だ。大学正門前、横断歩道を渡った先の雑居ビルの1階に、見覚えのない店があった。古書肆泥蓮洞とある。首を傾げながらも、誘われるように引き戸を引いて足を踏み入れた。


 店内は電球の色。古い木組みの書架が入口から四列並ぶ。奥に木製の脚高机があり、斜めを向いた椅子に年配の男──泥蓮洞主人が腰掛けていた。主人の横顔は、明治時代の一時期この街に棲み、生涯この街を愛した文豪のそれによく似ていた。


 主人は斜めを向いたまま言った。


「世界はね、私たちの思いどおりにはならないよ。その最たるものが他人の心だ。そうだね、この辺りの本が参考になる」


 まるであらかじめ用意していたかのように、カウンターに積んだ本を押しやる。ケアセラピー、初期仏教、絵本。


 気がつくと、彼女は正門から研究室に向かって歩いていた。手には三冊の古書。それがその後、彼女を変え、学生を変えることになる。


 翌春、学生は見事な論文を書き上げて卒業した。雑居ビルの1階は、今も以前と変わらず自動車学校の案内所だ。榛名は次の学生指導に励んでいる。

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泥蓮洞主人の横顔【KAC20231 お題「本屋」】 蓮乗十互 @Renjo_Jugo

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