古書店にいたひと

神崎 ひなた

古書店にいたひと

 まだ小さい頃、客なんか一人も来ない、埃と本で埋め尽くされた古書店が近所にあった。本好きだった私は足繫く通っていたが、通いつめる理由はすぐに変わった。

「本当にあるのかね。私が探している本は、この世に」

 どうやら店主らしい彼女は、毎日のように言った。本の山に埋もれ、溜息を吐く横顔は、子供ながらに魅了されるほど綺麗だった。大きな眼鏡も、腰まで結った三つ編みも、この世のものとは思えない美しさだった。

「私のために書かれた物語がどこかにあるはず。そう思うのは傲慢なのかな」

 もし彼女の求める話が自分に書ければ、と私は思った。きっと気に入られるに違いない。その一心で慣れない原稿用紙に向かった。幸いにも題材は目の前に転がっていた。

 冬も終わりに近づいたある日、古書店を訪れた私は、彼女に数枚の原稿用紙を渡した。

「これは……」

 彼女は最初こそ怪訝そうに眉を顰めたが、原稿用紙に目を落とすと、一気に最後まで読み上げた。そしていつものように溜息を吐く。

「拙い。つまらない。未熟で粗が目立つ。だが」

 彼女は原稿用紙を伏せ、そっと目元を拭う。

「これが、私のために書かれた話だということは、間違いない」

 すんと鼻を啜る音に、居心地の悪さを覚えた。咄嗟に「また明日来ます」と言うと、彼女は微笑んだ。

「もう来んなよ。バーカ」

 その一言に耐えきれず、衝動的に古書店を飛び出して後も振り返らずに走った。それでも、後ろ髪を引かれる思いで振り返ると、もう古書店はどこにもなかった。見覚えのない空き地に、春の木枯らしが足早に駆け抜けて消えた。


 あれから数年も経った今、空き地には大型商業施設が立っていて、当時の面影など見る影もない。

 古書店は思い出に消えた。私は歳を取った。

 それでも彼女の微笑みを、その意味を、今でもふとした時に考える。


 ……どんな話を書いたのかって?

 忘れちまったよ。何年も前の初恋の話なんか。

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古書店にいたひと 神崎 ひなた @kannzakihinata

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