夢幻常磐堂書房

古博かん

雨宿り しばし預かる 柳多留

 東京都台東区蔵前、商業施設や町工場がひしめく大通りから一本裏の筋を入ったところ、昔ながらの寺社仏閣が鎮座する一角に、時代から取り残されたような佇まいの古書店が、今日もひっそり挟まっている。

 申し訳程度に掲げられた看板には、右から読み流す「夢幻常磐堂書房むげんときわどうしょぼう」の文字。ここにはなぜか、一種曰くの逸品が自然と寄り集まってくる。


「あの、この本売りたいんですけど……」


 薄曇りの鬱々とした雨水うすいの頃だった。

 旧暦も改まったというのに、この日はやたらと寒く、しかし降ってくるのは雨まじりのみぞれという足元のおぼつかない中、その人は現れた。


 肩から提げた使い込んだトートバッグをごそごそしながら、人の気配のない店内に立ち入ると、黒々と変色した柿渋塗料も仰々しい浮造うづくりのカウンター前で取り出したのは、一冊の古ぼけた覚書おぼえがきときた。綴り紐のほつれ具合が、年季の深さを窺わせる。

 奥の小上がりから、やや間をおいて現れたのは、年代がかった店の雰囲気にはいささか不釣り合いな、こざっぱりとした青年であった。


「すみません、お待たせしました」


 湿気混じりの、ほんのりとカビ臭ささえ感じる手書きの覚書からは、飛び損ねた墨の香りが微かに漂っていた。いつ頃手がけたものかは定かではないが、随分と質の良い墨と和紙を使用していることから、思い入れだけはひしひしと伝わってくる。


「句帳ですか」

「先月亡くなった祖父の持ち物だったものです」

「ご遺品ですか」


「あの、売りたいと言いましたけど、タダで引き取っていただいても構いません……! とにかく、安全なところに移せたらなんでもいいんです!」


 切羽詰まったその人の顔は、ひどくやつれて青白く見えた。


「それは、穏やかではありませんね」

「その……、詳しくお話ししないとダメでしょうか」


 どうやら思い詰めた様子のその人は、肩から提げたトートバッグの持ち手をぎゅっと握りしめて薄暗い店内に佇んでいる。靴底から滲み出た泥混じりの水たまりが、どうしたわけか、じんわりと土間コンクリートを染めていく。あたかも、頷いてくれるまではテコでも動かないと示しているかのようだ。


「冷えるでしょう。どうぞ、そちらにお掛けください」

「いいえ、このままで結構です。どうぞ、先に見てやってください」

「では、失礼して。拝見いたします」


 中身を抜き出して持ち出してきたのか、おそらく覚書そのものは木箱のようなものにでも入れられて、長らく保管されていたのだろう。改めて鑑定するならば、軽く三百年は経過しているであろう和紙は、古ぼけた見た目に対して思いの外、状態が良い。

「おや、これは……」

 綿手袋越しに慎重に触れる綴りを一枚ずつ丁寧に開けば、そこに記された軽妙な俳風に、青年は目を疑った。


 ものは正式な刊行ではなく、おそらくそのための習作。所々に点付けを施した痕跡が見られる号は「川柳」ときた。これが、まごうことなき直筆であれば、おそらく現金換算など不可能な国宝級のお宝たりえる逸品となるだろう。


「大変、貴重なものですよ」


「はい……、はい! だからこそ、くだらない遺産相続に巻き込まれたくないんです」

「それは、それは」


 鬼気迫るその人の両眼が、積年の執念を否応にもかもし出す。


「さすがに、見合う対価をお支払いすることはできかねます。ご事情はどうあれ、万が一の紛失や汚損に備えて一時預かりということでしたらお受けいたします」


 ものが大業すぎて、とても青年の小さな書房で捌き切れると思えない。せめてもの妥協点として提案しようものなら、何一つ悩む素振りを見せずに二つ返事が、しんしんと冷える土間に打って響いた。


「ありがとうございます! よろしくお願いします」


 たったそれだけの提案に一縷いちるの希望を見出したような声音に、ここを訪れるまでの辛苦が沁みていた。まるで覚書それ自体を代弁しているかのようだ、と青年は内心した。


「では、お預かり証書をお作りいたしますので、少々お待ちを——あ」


 青年が根負けしたと言わんばかりに肩をすくめて見せると、その人の思い詰めた蒼白の顔が、ようやく安堵を浮かべて綻んでいた。

 そして、待てという青年の言葉を最後まで聞かずに、ぺこりと一度、深々と頭を下げたかと思えば、未練など微塵も感じさせることなくきびすを返し、戸口を抜けるとそのまますぅっと降りしきるみぞれ雨の中を音もなく消えていった。


「やれやれ、参ったな」

 これは本当に、覚書が手足を生やしてやって来たに違いない。そんな馬鹿げたことをすんなりと考えて受け入れてしまうのは、青年にとって、これが初めての経験ではないからだ。


 それにしても、これほどの逸品が危機感を覚える状況とは如何いかばかりか……経年で失われていく貴重な原書が安息を求めて憩う場所、それがここ「夢幻常磐堂書房」なのである。


「大変でしたね。しばし、こちらでごゆっくりなさってくださいね。いずれ然るべき筋から、お迎えがくることでしょう。ね、柄井からいさん?」


 残された覚書に向かって、ぽつりと囁けば、ちょうどめくられた紙面には、まるで回答かの如し茶目っ気の効いた川柳が。


——本降りに なって出て行く 雨宿り



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柄井川柳からいせんりゅう

江戸時代中期に一世を風靡した前句付点者まえくづけてんじゃ(講評、選定する人)。俳風柳多留はいふうやなぎだるで一躍有名になった、川柳風狂句と呼ばれる現在の前句を省いた川柳スタイルを確立した元祖。

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