犠
何が正しいのかなんて俺にはわからない。ただユウリの望みを叶えてやりたいと、そう思った。
ゆっくりと指先に力を込める。ユウリは目を閉じて、その不可逆の流れに身を任せている。これで本当に殺せるのかどうか、消えることができるのか、それすら判然とはしない。それでもただ一心にユウリの首を絞め続けた。異変に気付いたのは五分ほど経ってからだ。ユウリの体の端の方が、少し色が薄くなって透けている。さらに続ければその範囲はどんどん広がっていった。間違いない、これで消せる。その確信を得てからはあらゆる思考に蓋をした。
どれほど時間が経っただろうか。ユウリの胸から下はほとんど消えて、首と頭だけが残っているような状態だ。しかし首が消えてしまったらどうやって殺せばいいのだろう。その疑問を抱いた瞬間、ふっと指先の感覚がなくなって、後には何も残らなかった。俺はただ呆然と立ち尽くし、わずかに自分の手に残っている感触を確かめる。もうユウリはどこにもいない。俺が愛した人の偽物は、身も蓋もない方法で、実にあっけなく消えてしまった。求めても拒んでも、どのみち俺は失うだけだった。
日常が与えてくれるものはたった二つ、疲労と金銭だけだ。幾人かの人間が俺を励ましたり慰めたりしようとして無様に失敗した。それ以来自分から俺に近づこうとする人間はいない。人間ではないあの愛莉の偽物だけが、俺との繋がりを保とうとしていた。そして俺はその繋がりを自らの手で断ち切ったのだった。もはや何を望めばいいのかもわからなかった。だから俺はユウリを消したときと同じように、最も短絡的で暴力的な解決法を選んだ。
タクシーをつかまえて三十分ほど走り、そこから徒歩で五分ほど。普段暮らしているときはほとんど気にしていないのに、それは実に簡単に手の届く場所にある。夕日が沈みわずかな太陽の残滓が残るだけの空を反射して、海は暗く輝きを放つ。
最後に海に来たのはいつだっただろうか。愛莉と二人で来たことはない。二人ともビーチではしゃぐようなタイプではなかったし、釣りにもさっぱり興味はなかった。ただ愛莉が旅先で撮った写真の中には海が映っているものもあった。ある時は青く、またある時は紅く、海は様々な表情を見せていた。けれどその底に何が沈んでいるのかは誰も知らない。なんとなくユウリに似ているな、と思った。
あの日から海は俺にとって墓場だった。死に場所を求めた時に、これ以上相応しい場所はないと思った。遠く離れていてもきっとどこかで愛莉と繋がっている。生きる理由も、死ぬ理由も、結局どちらも愛莉に求めることしかできなかった。
堤防を上って、眼下に広がる海面を見下ろす。重りの一つでも持ってきておけばよかったな、なんて思いながら一歩踏み出した。
「ダメですよ、そんなことしちゃ」
確かに声が聞こえた。振り返ればそこにユウリがいた。
俺の思考が追い付く前にユウリは俺に向かって告げる。
「あ、私もう消えますよ。これはアディショナルタイムみたいなものです」
「……は?」
「そりゃあ死んだ人間は帰って来ませんよ? でもまあ、私人間じゃないので。その辺の線引きがあなた方より幾分か緩いんです」
そう言ってユウリは微笑む。ユウリは直に消える。愛莉は決して帰ってこない。現実は何も変わっていない。けれど、さっきは踏み出せた一歩を前に進めることができなかった。
「死んだら愛莉さんに会える、とか思ってます?」
「……ああ」
「随分都合がいいんですね。私なら後追い自殺なんてした彼氏には会いたくありませんけど」
「お前に何がわかる……!」
「何もわかりませんよ。私は偽物ですから」
震えるようにユウリの影が揺らいだ。
「でも、あなたのこと好きでしたよ」
彼女に思いを告げた時、俺は何と言ったんだったか。緊張していたのであまりよく覚えていないが、確か「よければ自分と付き合ってほしい」というような、かなり腰の引けた言い方だった気がする。まともに彼女の顔を見ることもできなかったが、返事をもらった時の高揚感と安堵だけははっきりと覚えている。それが俺の人生で一度きりの、誰かを愛した経験だった。
「偽物とはいえ元が愛莉さんですからね。好きになっちゃいますよ、そりゃ」
遠く海の果てを眺めながらユウリは語り続ける。それは愛莉の声だけど愛莉の言葉ではない、本物のユウリの言葉だった。
「だから最後に、もう一つだけわがままを言わせてください」
夜の闇に飲まれるように、ユウリの体が
「死なないで。ちゃんと生きて。愛莉さんと、ついでに私が愛したあなたは、この世に一人しかいないんですから」
そう言い残してユウリは消えた。どうしていいかわからず、俺はただ泣いた。
ユウリが消えたその三日後、愛莉の遺体が発見された。損傷が激しく判別は困難だったそうだが、一緒に流れ着いた所持品から身元が判明したらしい。そのまま日本に送還するのは不可能だったため現地で火葬を行い、遺骨といくつかの遺品が帰って来た。そして愛莉の両親の厚意により、遺品の一部を譲り受けることができた。今俺が手にしているカメラもその一つだ。
次の休みにはこれを持ってどこか旅に出ようと思う。何か目的があるわけではない。だがそうすることで少しだけ前を向けるような、そんな気がするのだ。何の根拠もないけれど、それでいい。あいつならきっと、そうするだろうから。
相変わらず失ったものの大きさは測り知れない。それでも俺は生きていこうと思った。
偽物彼女系怪異ユウリさん 鍵崎佐吉 @gizagiza
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