儀
結局大した収穫も得られないまま俺は再び日常に戻っていく。今思えば、あれは外に出てみたかったユウリが適当な口実をでっち上げただけなんじゃないかという気すらしてくるのだが、それを確かめる術はない。そのユウリの方はあれから特に変わった様子もなく、相変わらずマイペースで何を考えているのかよくわからない。
「そういえば聞き忘れてたことがあるんだが」
「ん、なんでしょう?」
「どうして俺に会いに来たんだ? 愛莉と関わりの深い人間ってことなら、両親とかでもいいわけだろ」
「それは私の持ってる愛莉さんの記憶があなたにまつわるものばかりだったからです。実を言うと愛莉さんのご両親のことは私はほとんど知りません。実家がどこかすらわからなかったから、訪ねようがなかったんです」
ユウリを愛莉の両親に会わせる、という考えはなかったわけではないが、やはりかなりの躊躇いがあった。死んだと思っていた我が子の生き写しが目の前に現れたら、まず冷静ではいられないだろう。どんな反応を示すのか、そしてどんな結末になるのか、さっぱり予想がつかない。正直言って、俺自身だってこれから先ずっと正気でいられる自信なんてないのだ。とにかくそんな危ない橋を渡るわけにはいかなかった。
「じゃあ他にどこか記憶に残ってる場所はないのか」
「お、また連れて行ってもらえるんですか?」
「……言っとくがデートや観光じゃないんだからな。あまりはしゃぐなよ」
「もちろんですよ」
それは自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。
次の休日に俺たちが訪れたのは最寄りの映画館だった。愛莉が旅行に出て、そして帰ってこなくなるその前、最後にデートをした場所だ。以前にも増して知人と遭遇する可能性の高い場所だったが、その時はもう他人の空似で押し切ろうと腹をくくった。
「で、何を見ましょうか?」
「別になんでもいい。それが目的じゃないしな」
「ふーん。あ、じゃあこれにしましょう」
そう言ってユウリが示したのはコテコテの青春ラブロマンスだった。
「……正気か?」
「いやいや、なんでもいいって言ったじゃないですか。それに一応恋人って設定なんですから、それっぽいものを見た方がいいかと思って」
思い返せば愛莉とはそういったものを見た事がなかった。他人から見ればいささかドライな関係に見えたかもしれない。だけど俺たちはお互いにその距離感に満足していたし、手を繋いで歩いたり作り物の愛をなぞったりしなくても、相手のことを愛していられるという自信があった。だから彼女が友達と二人で海外旅行に行ってくると聞いても、俺は笑顔で送り出すことができた。
もしあの日、俺が愛莉を引き留めていたら。何千何万と繰り返した後悔が暗闇の中で光るスクリーンにちらつく。予知能力は与えられなかった。時間遡行もできなかった。死んだ人間は決して帰ってこない。それなのに、愛莉の偽物はここにいて、あの日の愛莉と同じようにこうして俺と映画を見ている。運命というやつはどこまでも理不尽で残酷だ。
映画は単調で先の読める展開ばかりでつまらなかった。
愛莉は人が死ぬ話が嫌いだった。単純に怖いとか不謹慎だとかいう以上に、人の死が感動を生み出すための道具に使われるのが嫌いだと言っていた。逆に俺はそういう話は好きだったので、同じ映画を見ても感想が一致することはあまりなかった。それでも何度もこの場所にやってきたのは、そうやって何事にも真摯に向き合う彼女が好きだったからだ。近くのカフェでスイーツを食べながら、少し不満げな愛莉とその日見た映画について話すのが好きだった。
若くして不慮の事故で亡くなった彼女は、煽情的なマスメディアによって悲劇的に報道された。感受性豊かな視聴者たちは画面の前で涙を流し、次の朝には何食わぬ顔で出勤して、やがて愛する家族の待つ我が家へと帰っていく。きっと愛莉は文句の一つでも言いたかったことだろう。だけど俺は声を上げられなかった。そんなことすらできないほどに打ちのめされていた。
今俺がどうにか立ち直りつつあるのは、やはりユウリのお陰なのだろう。ユウリは圧倒的に非現実的な存在だからこそ、俺の感性を程よく麻痺させてくれる。ではユウリが消えた後、俺はどうなるのだろうか。麻酔の切れた生身の心で、あの痛みに耐え続けられるだろうか。やはり答えはわからなかった。
愛莉と来た時と同じように俺たちは近くのカフェで少し休憩することにする。といってもユウリは愛莉と違って何も食べない。俺だけがコーヒーを頼んで、それをゆっくりすすりながら問いかける。
「本当にこんなこと続けて意味があるのか?」
「それはわかりません」
ユウリは悪びれる風もなくきっぱりと言い切った。
「でも愛莉さんの記憶をたどることで何か掴めそうな気がするんです。私が持っているものはそれしかありませんから」
ほんの数十日前に生まれた愛莉のドッペルゲンガーに、過去も思い出もあるはずはない。むしろこうして他人と会話できるだけの自我を持っていることがすでに奇跡なのかもしれない。そうだとしたら、ユウリがこうして俺の前にいることには、何らかの意味があるということなのだろうか。
死んだ愛莉が一人残された俺を見かねて、自分の分身を寄越した。ありきたりなフィクションならきっとそういう展開になるだろう。感傷的で独善的な実に都合のいいシナリオだ。愛莉はきっとそういう話は嫌いだろう。ユウリの中には一ミリだって愛莉の意思は介在していない、なんとなくそんな気がした。では愛莉はいったい何を望んでいたのか。
死者は何も教えてはくれない。夢や幻覚の中に現れて、優しく語りかけてきたりはしない。俺の前にいるのはただの偽物で、決して愛莉の言葉を話したりはしない。冷めたコーヒーの苦さだけがいつまでも舌の上に残っていた。
ユウリがうちに来てからすでに一月が経とうとしている。相変わらずユウリは消える気配もなく、家事をしながら調査という名目のネットサーフィンをしている。人間ではないという点を除けば、専業主婦とそう変わらない生活だ。そして近頃は俺も色々と悩んだり考えたりするのが億劫になり始めていた。わからないものはわからない。特に邪魔になっているわけでもないし、消えないのならもうそれでいいじゃないか。ドッペルゲンガーなんてものに真剣につきあって心をすり減らす方が馬鹿らしい。そんな気分だった。
「あ、お帰りなさい」
そう言って仕事から帰って来た俺を迎えたユウリは、いつもと少し様子が違っていた。なぜか落ち着きがないように見えて、同じ姿をしているのにどこか愛莉らしくなかった。
「何かあったのか?」
何気なくそう尋ねると、ユウリは少し表情を変える。見覚えのある顔だった。
「あの、ちょっとシャワーをお借りしました」
「……は?」
「いやぁ、結構気持ちのいいものですね。まあ水道代の無駄だと言われればそれまでなんですが」
ユウリの体はどれだけ放置しても汚れることはなかった。何もせずともずっとあの日の愛莉と同じ姿を保ち続けている。だから食事や睡眠と同様に、体を洗う必要だって無かったはずだ。
「実は一つ考えがありまして」
ユウリはそう言いながら俺に一歩近づく。わずかに女の香りがした。
「もう一つあるんですよ、愛莉さんの記憶。場所の記憶ではなくて、行為の記憶ですが」
「……どういうつもりだ」
「今までと同じようにちょっと再現してみようってことですよ。あなただってほら、急に彼女がいなくなって困ってるでしょう?」
「お前、正気か?」
「これも私を消すためですよ。……それとも、私とじゃできませんか?」
どこか物憂げで、それでいてわずかに恥じらうような、そんな愛莉の顔がこちらを見つめていた。なにかに心臓を絡めとられたような、そんな感覚を覚えた。無邪気で、マイペースで、それゆえに底の見えない女。高鳴る鼓動と同時に、頭の隅で警鐘が鳴り響く。こいつに感化されるのは危険だ。理屈はわからないが直感的にそう思った。
「難しく考えなくていいんです。ただ私のわがままにつきあってあげるってだけですから」
ユウリはいつかの愛莉と同じようにほほ笑んだ。
「大丈夫ですよ。同じ体なんだから、きっと楽しめるはずです」
思考より先に反射的に手が動いた。ドン、という鈍い音が部屋に響く。ユウリの細い首を鷲掴みにしたまま、ギリギリと廊下の壁に押し付ける。何が自分をそうさせるのか、はっきりとはわからない。怒りか、警戒心か、自己嫌悪か、ただの八つ当たりか。だが一つだけ確かなことがあった。
「お前は愛莉じゃない」
愛莉の代わりなんていない。そんなものはいらない。こいつは偽物だ。愛莉の皮をかぶった化物だ。ユウリの肌からは血の温もりは感じられなかった。俺はさらに指に力を込める。
殺してしまえば、消えるんじゃないだろうか。
あまりにも短絡的で暴力的な考えに行きついた時、俺はようやく自制心を取り戻した。そしてユウリが一切抵抗をしていなかったことに気づいた。
「……いいですよ」
かすかな囁き声が聞こえた。熱のない首に手を添えたまま、俺は動けない。ユウリの手がゆっくりと俺の手に重ねられる。
「殺してください。それで消えられるなら、私は本望です」
「でも——」
「実は何度か試してるんです。でも、自分じゃうまくできなくって。おかしいですよね、生きてもいないのに死ぬのを怖がるだなんて」
ユウリはそう言って苦笑する。それは一度も見たことのない、ユウリだけの表情だった。
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