戯
目が覚めると何かキッチンの方から音が聞こえる。ドアを開けてみれば肉の焼ける美味そうな匂いがした。そこに立っていたのはユウリだった。
「あ、おはようございます。することなくて暇だったんで、冷蔵庫にあったもので軽く朝ごはん作ってみました。もうすぐできるんでちょっと待っててくださいね」
「……お前、料理できるのか」
「偽物とはいえ元が愛莉さんですからね。これくらいは余裕ですよ」
愛莉は料理が上手かった。食への関心が薄く粗食になりがちな俺を見かねて、こうして手料理を振る舞ってくれることも多かった。ユウリの作ったベーコンエッグは、どういうわけか俺が普段作るものより何倍も美味かった。
あれから色々考えたが、結局ユウリを消す方法はわからなかった。塩を撒いてみたり念仏を唱えてみたりもしたのだが特に効果はなかった。どうもドッペルゲンガーというのは悪霊なんかとはまた違った存在らしい。実際こいつは実体を持っていてこんな風に料理をすることだってできるし、見た目や雰囲気も人間と違うところは何一つない。まさに愛莉の生き写しそのものなのだ。
ただ別に生きているわけではないので、料理はできても食事はできないし、排せつや睡眠といった人間には不可欠な行為も必要ないらしい。俺が寝ている間はネットで自分の消し方を調べていたようだ。まったくもって勤勉なのかなんなのか、よくわからない奴だった。
「で、何かわかったのか?」
「真偽はともかくとして、ドッペルゲンガーの対処法みたいなのはいくつか見つけたんですが、どれも本物の方が生きている前提なので、あまり意味がありませんでしたね」
「……そもそもドッペルゲンガーってなんなんだ? なんで愛莉が選ばれたんだ?」
「別に選ぶとか選ばないとか、そういうのじゃないですよ。生まれた時にはもうこの姿をしていました。本来はもっと曖昧で空虚な、影みたいな存在なんです。別に人を呪い殺したりするような力も持ってないですし」
「じゃあ何のために人に化けてるんだ?」
「さあ? そういう存在、としか言いようがないです。でもあなた方だって、人間が何のために生きてるのか、なんてわからないでしょう? それと同じですよ」
ようするに当人にもよくわからない、ということらしい。ドッペルゲンガーという存在がどういうものなのかはっきりしない以上、それを消す方法もわかるはずはない。気軽に外に出すわけにはいかないし、しばらくはこの妙な共同生活が続きそうだ。まあ食費もかからないし寝床も必要ないので生活を圧迫することはない、というのが唯一の救いだろうか。
「とは言ったものの、正直今の私はドッペルゲンガーとしてもかなりイレギュラーな状態にあるので、確かなことは何も言えないんですけどね」
「はぁ……そうかよ」
一応はユウリという名前をつけ、別人として認識することにはしたものの、やはりこいつはどう見ても愛莉にしか見えない。さらに落ち着いてよく見てみれば、細かい所作や癖なんかも愛莉と同じに思えてくる。こんな明らかに異常な存在と一緒にいることが、俺の精神に対してどのような影響を与えるのか、正直自分でも予想ができない。しかしあくまで主観的な感想を言えば、ユウリからは悪意は感じなかったし、むしろ欠けていた何かがゆっくりと満たされていくような充足感すらあった。
偽物にこんな感情を抱いてしまうのは、愛莉に対する裏切りになるだろうか。だとしたらやはり俺はユウリを消すべきなのだろう。とはいえ方法がわからないのではどうしようもない。
また生きていくための日常が始まり、余分な感情は押し流されていく。働いて、食べて、寝る、その繰り返し。以前と違うのは同居人のドッペルゲンガーが家事をしてくれるようになったということだ。いささか妙な気分ではあったが、料理にしろ洗濯にしろ、ユウリは俺よりはるかに手際が良かったので任せてしまうことにした。
「これでよく一人暮らししようと思ったね」
俺の家を訪れるたびに愛莉は呆れ顔でそう言っていた。俺からすれば男の一人暮らしなんてこんなものだと思っていたのだが、どうも彼女からすると俺の生活は一般的な水準に遠く及ばないものだったらしい。愛の語らいなんてそっちのけで、掃除や洗濯をして帰っていくなんてこともよくあった。情けない話かもしれないが、俺はそうやって愛莉に世話を焼かれるのが好きだった。やっぱり結婚するならこういう相手がいいよな、なんてだらしない妄想をしていた。付き合い始めて三年、そろそろ覚悟を決める時かな、と思っていた。
そんな折、愛莉は帰らぬ人になった。そして俺は今、愛莉の偽物と暮らしている。決して幸福とは言えなかった。だがこの生活を不幸だと断じる勇気も、もう持ち合わせてはいなかった。
ユウリと暮らし始めて二週間ほど経った頃だった。ユウリの作った野菜炒めと豚の生姜焼きを食べていると、その様子をじっと見ていたユウリが不意に切り出した。
「あの、私、行ってみたい場所があるんですが」
「……おい、ちょっと待て。外に出るつもりか」
「もちろん一人でとは言いませんよ。あなたも一緒です」
「いや、そういう問題じゃないだろ。知り合いに見られたらどうするんだ?」
「大丈夫ですよ。ちょっと髪型を変えてマスクで顔隠してたらぱっと見ではわかりません。それにこのままだと永遠に私を消す方法が見つからなさそうですし」
「そこに行けば何か手がかりが掴めそうだってことか」
「確証はありませんが、まあ、多分」
どうにも気が乗らないが、確かにこのままではユウリを消す方法はわからない。多少のリスクがあったとしても、そこに可能性があるのなら賭けてみるしかなかった。
「……どこだ?」
「えーと、場所の名前ははっきりとはわからないんですけど、多分どこかの水族館で、あなたが愛莉さんと行ったことがある場所です」
思い当たる場所は一つしかなかった。
仕事以外で外に出るのは愛莉が死んで以来初めてのことだった。気が付いた時には喜びや楽しさといったものに、すっかり臆病になってしまっていた。脳裏をよぎる不安と罪悪感を振り払って、俺はユウリと共に家を出る。目的地はここから電車で一時間ほどする場所にある水族館だ。そこは俺が愛莉と初めてデートをした場所でもある。
「口では説明しづらいんですけど、私の中に愛莉さんの記憶の欠片みたいなものがあって、それがあるせいで私は消えずにいるんだと思うんです。だからそれをたどっていけば何かわかるんじゃないかなって。まあただの勘ですけど、ドッペルゲンガーの勘なわけですから、信じてみてもいいんじゃないかと」
それがユウリの言い分だった。
休日ということもあって水族館にはそれなりの人がいた。誰かに見つかる可能性もゼロではないと思うとどうにも落ち着かなかったが、ユウリの方はそんなことを気にした素振りもなく無邪気にはしゃいでいる。傍から見れば俺たちは普通の恋人同士に見えているのだろうか。もちろん怪しまれないためにはそうあるべきなのだが、どうも素直に楽しもうという気にはなれなかった。
「で、どうします?」
「どうって、ここに来たいって言ったのはそっちだろ」
「でも私の中の記憶は断片的なものですし。愛莉さんと来た時はどんな感じだったんですか?」
「別に、適当に回って軽くカフェで休憩して、それで終わりだ」
「えー、なんか淡白ですね。手とか繋がなかったんですか?」
「お前なぁ……」
そんな話をしながらいくつもの水槽が立ち並ぶ通路を二人で歩いて行く。
最初に水族館に行こうと提案したのは俺の方だった。それは初デートの場所としてふさわしいと思ったからというよりは、単純に俺が行きたい場所がそこしかなかったからだ。愛莉はその提案を二つ返事で了承して、あっさりと日程が決まった。
水族館にいる生き物なら、カニが一番好きだ。そう言ったら愛莉に笑われた。タカアシガニの持つあの独特なフォルムと存在感が好きだったのだが、その情熱はついに理解されることはなかった。今頃愛莉の体は海の底でカニのエサにでもなっているのだろうか。そうだとしてもこの場所やカニのことはやっぱり嫌いにはなれなかった。
熱帯魚を見て、深海魚を見て、カニとクラゲを見て、ペンギンを見て、イルカショーを見た。
「で、どうなんだ?」
「え、何がですか?」
「何がですか? じゃない。何か手がかりは掴めたのか? 本来の目的を忘れるな」
「あー、なんというか、なんとなく少しわかったような気はします、はい」
「おいおい……」
出会ったときから思っていたが、どうもユウリには危機感とか緊迫感というか、そういうものが圧倒的に足りていない。唯一愛莉と違う点があるとすればそこだ。あるいはそれは人間とドッペルゲンガーの違いなのかもしれないが。どちらにせよ、そのせいで俺は今一つ深刻な気分になりきれずにいる。もしかしたらそれはユウリなりの気遣いなのかもしれない、というのはやはり考え過ぎだろうか。結局人ならざる者の考えていることなんて俺にはわからない。
「色々見ましたけど何が一番好きでした?」
「……タカアシガニ」
マスクの向こうからユウリの笑い声が聞こえた。
「カニって、ここは海鮮市場じゃないんですよ?」
それは確かに愛莉の声で、愛莉の言葉ではなかった。それなのに気を抜くとすぐに俺はこいつに溺れてしまいそうになる。死んだ人間に縋り続けるのと、その偽物に絆されるのと、いったいどちらがまともなのだろうか。その答えもまた俺にはわからなかった。
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