偽物彼女系怪異ユウリさん

鍵崎佐吉

 愛莉がいなくなってからそろそろ一月が経つ。俺は未だに失ったものの大きさを測りかねていた。それでも無情にも日々は進んでいく。とりあえず働いて、飯を食って、寝る。生きるためにはそうするしかないし、それを繰り返すうちに少しずつ悲しみが鈍麻していく。そんな毎日にようやく慣れてきた頃だった。

 休日ではあったが、何もする気が起きなかった。ただぼんやりネットやテレビを眺めていたら、不意に来客を告げるチャイムが鳴る。

 そこにいたのは愛莉だった。俺の思考は完全に止まってしまったけど、体は何かに支配されているみたいに勝手に動いて、そこにいる愛莉を迎え入れた。愛莉は開口一番にこう言った。

「初めまして。私、坂下愛莉のドッペルゲンガーです」

 どうしていいかわからず、俺はただ泣いた。


 ドッペルゲンガー、というのがどういう存在なのか詳しいことは知らない。本人とそっくりの生霊みたいなもので、二人が出会ったら本物が死ぬとか死なないとか、そういう感じだった気がする。

 目の前にいるこいつは、愛莉と全く同じ姿をしていて、愛莉と全く同じ声をしている。だがこいつ自身が自分は偽物だと言うのだから、おそらくそれは事実なのだろう。それ以上のことは俺にはわからない。

「すみません、いきなりお訪ねしちゃって」

 玄関でいきなり泣き崩れた俺をどうにかなだめて、愛莉のドッペルゲンガーはやや申し訳なさそうにそう切り出した。

「でもやっぱり、正体はちゃんと最初に明かしておいた方がいいかなって。変な期待を抱かせるのも気が引けますし」

「……変な期待?」

「本物の愛莉さんが生きているかもっていう、そういう期待です」

 こいつと出会った時とはまた少し違う、胸を刺し貫くような鋭い衝撃を感じた。愛莉は死んだ。ちゃんと頭では理解しているつもりでも、いざ面と向かってその事実を突き付けられると平静ではいられなかった。それと同時に、こいつのどこか突き放したような物言いに、少し感じるところがあった。

「……お前が愛莉を殺したのか?」

「いやいや、そりゃ確かに私は世界一の不審者でしょうけど、そんなことはしてないし、できないですよ。それはあなたも知ってるはずですよね」

 その言い方にはどこか含みがある。そして確かに、思い当たる節もあった。

「お前、愛莉の死因を知ってるのか」

「はい。まあ知っている、という感覚とは少し違いますけど」

 愛莉の死因は事故死だ。オカルト的な要素が入り込む余地はない。友人との海外旅行の最中、乗っていた観光船が座礁してそのまま沈没した。助かった人間もいたが、乗客の七割は帰ってこなかった。愛莉は今も遠い異国の海の底で眠っている。遺体と会ってないせいか、彼女が死んだという実感はわいてこなかった。

 そしてついに、遺体の前に彼女のドッペルゲンガーに会ってしまったというわけだ。まったくもって現実感の欠片もない、そんな状況だった。

「一つ、聞きたいんだが」

「はい、なんでしょう」

 愛莉のドッペルゲンガーは愛莉の声でそう答える。

「ドッペルゲンガーっていうのは、本人が死んでも消えないのか?」

「そう、そこが問題なんですよ!」

 不意に声を強めた愛莉のドッペルゲンガーは、やや顔をしかめながらしゃべりだす。

「私が生まれたのは多分今から四十日くらい前なんですけど、その直後に本物の愛莉さんは海外に行ってしまって、そのまま帰ってこなかった。だから私、本物の愛莉さんとは一度も会ってないんです」

 確かに思い返してみても、愛莉が自分とそっくりの人間を見た、なんて言っていた記憶はない。

「それが何か関係あるのか?」

「ちょっと観念的な話になってしまうんですけど、偽物っていうのは本物がいないと成り立たない概念なんです。だから本来は本物の愛莉さんが死んだ時に私も消えるはずだった。だけど私は一度も愛莉さんに会えなかったから、偽物として認識されることもなかった。そして愛莉さんも、誰にもその死を認識してもらえないでいる。多分そのせいで、色々とこんがらがっちゃったわけです」

「……つまりどういうことだ?」

「今の私には本来は存在しないはずの、本物の愛莉さんの記憶があります。そしてそのせいで、本物がいなくなったあとも消えることができずにいる」

 愛莉のドッペルゲンガーは、愛莉と同じ顔で俺のことをまっすぐ見つめる。目を逸らしたかったが、できなかった。愛莉と同じ声があっけらかんとした調子で告げる。

「だからあなたに、私を消す手伝いをしてほしいんです」


「もし私が死んだらどうする?」

 昔、そんなことを愛莉に聞かれたことがあった。あの時俺はなんと答えたんだったか。はっきりとは思い出せないが、俺も一緒に死ぬ、とは言わなかったはずだ。もしそう言っていたら、俺はもうこの世にいないことになる。愛莉のいない世界で、愛莉の面影を追いながら、今日も俺は生にしがみついている。そしてついに面影の方からわざわざ俺に会いに来て、自分を消してくれと言い始めた。

 呪いや祟りの方がまだマシだった。俺を殺しに来てほしかった。だけどこの愛莉の偽物は、なぜか邪悪とは程遠くて、どうもそういうことは期待できそうになかった。


 愛莉は死んだ。なのに愛莉とそっくりの、愛莉の偽物はまだそこにいる。こいつを消したいか、と問われれば俺は肯定も否定もできない。偽物だとわかっていても、愛莉の声で話す愛莉の姿をした何かを、俺は嫌いにはなれなかった。かといってドッペルゲンガーなんて得体の知れないものを全面的に信頼する気にもなれなかった。

「お前は消えたいのか? 普通こういうのって、偽物の方は本物がいなくなったら喜ぶんじゃないのか?」

「それは偏見ってやつですよ。さっきも言ったように、偽物は本物がいて初めて成り立つ概念なんですから。私が愛莉さんの体を乗っ取ったとかならまだしも、本物は私と会う前に死んじゃったわけで」

 愛莉のドッペルゲンガーは苦笑いを浮かべながら言う。

「二度と本物と邂逅することのないドッペルゲンガーなんて、なんの存在意義もないじゃないですか。誰にも見られることのない一人芝居を永遠に続けるようなものです。それに死んだはずの人間がそのあたりをうろついてるっていうのも、あんまりよろしくないと思いますけど」

 ドッペルゲンガーの存在意義は置いておくとしても、確かにこいつがここにいるのはまずい。遺体こそ見つかっていないが、愛莉はもう戸籍上では死んだことになっている。知人に見つかったりすれば大騒ぎになるだろう。

 海外で起きたあの悲惨な事故は、邦人が巻き込まれたこともあって国内でもかなり話題になった。俺のところにも何度か取材陣がやってきたことがある。あいつらは口先だけの慰めを垂れ流して、本音では最愛の人を失った哀れな男の悲嘆の叫びを聞きたがっている。あのハイエナどもの餌食になるのはもうごめんだ。そうなればこいつに消えてもらうのが一番手っ取り早い。

「……具体的にはどうすればいい?」

「それが私にもよくわからないんですよね。本来ドッペルゲンガーっていうのはもっと曖昧な存在なので。こんな風にしゃべれるようになったのも、愛莉さんがあの事故にあってからなんです」

 愛莉のドッペルゲンガーは腕組みをしながら考えこんでいる。やはりその姿はどこからどう見ても愛莉にしか見えなくて、俺は自分が過去に戻ったかのような錯覚を覚える。もしこいつが俺を騙すつもりだったら、俺はこの愛莉が偽物だとは見抜けなかっただろう。どれだけ不合理で非現実的でも、愛莉が戻って来たのなら俺はそれを受け入れてしまうだろう。もしかしたら、その方が幸せだったかもしれない、と思った。感傷に沈んでいた俺の意識を愛莉の声が現実に引き戻す。

「そうだ、名前つけてみてくださいよ」

「名前?」

「名は本質を表すっていうじゃないですか。案外それであっさり消えられるかも」

 ということはこいつは今はただの名無しらしい。愛莉の偽物、人の姿をした人でないもの。適当な名前でもよかったが、仮にも愛莉の姿をしているものを雑には扱えなかった。一分ほど考えて、その名を口にする。

「……ユウリ」

「わぁ、良い名前ですね。もっとこう、アイリモドキとかエセアイリとか、そういうのかと思ってました」

「で、消えれそうか?」

「うーん、特にそういう感じはないですね」

 愛莉の偽物改めユウリは、特に気負った様子もなく俺に告げる。

「まあそういうわけなんで、これからよろしくお願いしますね」

 こうして俺は死んだ彼女のドッペルゲンガーと一緒に暮らすことになった。

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