読書が趣味の私とおじさん

七四六明

読書が趣味の私とおじさん

 私、棚橋たなはし詩織しおりは中学生。ただし、不登校だ。

 中学二年の春。学校でも有名な不良の先輩に目を付けられてしまい、しつこく言い寄られた上、先輩から護ろうとしてくれた友達が怪我をさせられてしまった事を理由に不登校になった。

 そんな私の趣味は読書。だけど家にある本は二ヶ月と経たずに読破してしまって、先輩の事が怖いからわざわざ隣町の本屋に通う事になった。

 中年男性が営む、若干古い雰囲気の本屋。

 古書だけでなく、親書も扱ってくれるし、立ち読みしていても文句を言われない。

 本当なら、自分くらいの年頃の子供が本屋にいる時間ではないはずなのに、店主は何も言わず、放っておいてくれていたから、安心して読書出来た。

 そうして一ヶ月。二ヶ月。

 日数が経つ毎に学校へ行き辛くなり、比例するように本屋へ足繫く通う様になっていった頃、私は読書に夢中で気付かなかった。

 次の本にと手を伸ばした時、先に本を取っていた手を取ってしまったのだった。

「あ、ごめんな……さ……」

 最後まで言えなかったのは、その人の顔を見てしまったからだ。

 サングラス越しの中でも鋭い眼光をギラつかせる目。鼻の頭から右耳付近まで真っ直ぐ入った縫い傷。白シャツの下に隠れているものの、おそらく潜んでいる獣の爪だろう刺青が、首の筋からわずかに見える。

「何や我、この本が欲しいんか」

「え、っとその……ごめん、なさい」

「欲しいんかどうか聞いてるんじゃ。謝るとこちゃうやろ」

 不良の先輩なんて比べるまでもない。

 社会的にも怖いと言われる人たちの仲間なのだと、私の本能は察していた。

「まぁえぇ。どうしてもっちゅうんならこっちにも考えがある」

 と、男性はバッグの中をゴソゴソと探り、中から取り出したのは。

「これで勘弁してくれや」

 五〇〇円分の図書カードだった。

「え、えっと……」

「自分この作家の大ファンでな。この本大昔に書かれたこの作家の処女作やねん。今日ようやっと見つけたところやったんや。これやるから、こっちは譲ってくれへんか?」

「は、はい……」

「ありがとな、嬢ちゃん」

 若干高圧的で怖かったけれど、悪い人ではなさそうだ。なんて思ってしまった。

 まぁ、今時ドスを持ち歩いて一般人だろうと見境なく喧嘩を売って、金を請求するなんて人はの世界にも現代ではいないだろう。そういうことは、もうフィクションとか二次元の話だ。

 だなんて冷静に考えられるのはきっと、そういう風貌をした人が読書好きで、一人の作家のファンだなんて言うからだと思った。

 そしてその怖い人は、翌日も同じ本屋にいた。

「おぉ、あん時の嬢ちゃんか。昨日はすまんかったの」

「い、いえ。私、絶対にあれじゃなきゃ嫌って訳じゃなかったですし」

「しかし、あの本を選ぶとぁなかなかいい目ぇしとるな嬢ちゃん。さてはあれか、読書家ぁ言う奴やろ」

「ま、まぁ他の人よりは少し多く読んでるかな、程度で……」

「なら、こいつはどうや?」

 おじさんが優しい人だと言うのはわかるのだけど、革のカバンをゴソゴソされるとちょっとドキドキする。

 ドスか、白い粉か。そんな物が出て来る事は無いだろうとは、多分の言葉付きで思っていたのだけれど、やっぱり緊張した。

「『銀河鉄道の夜』は知っとるやろ。あれの鬼門は冒頭の、鉄道とも主人公ともほとんど関係ない部分が続く所や。この本も、冒頭は最初、何か意味わからん事を延々と書き続けてるが、最後になるほどと思えて来る。そんな逸品や」

 と推された結果、つい借りてしまった。

 返すのはいつでもいい。どうせまたあの本屋に来るやろと言われて、確かにと思いながらつい受け取ってしまった。

 が、確かに面白かった。

 おじさんの言う通り、確かに序盤は難しい話で何が言いたいのかわからなかったが、頑張って読んだ先に待ち受けている爽快感。そうかそう言う事だったのかと、本の著者が伝えたかった物を知った時、私の心は何とも表現し難い充足感でいっぱいになったのである。

 その後も。

「『吾輩は猫である』は読んだ事あるか? 人間やない視点から人間を見る、皮肉たっぷりな作品何やけども、こいつにはあれにはない大どんでん返しが待ってるんや。最後まで一気に読んでみぃ、おもろいで」

 その後も。

二葉亭ふたばてい四迷しめいの『浮雲』は読んだ事ないか? ニッポン近代小説の開祖とまで言われた奴や。いっぺん読んで――あ、読んだ事ある? なら話は早い。こいつ読んでみぃ。四迷も作品の参考にした、ロシアのイワン・ゴロンチャフの『オブローモフ』。かなりの長編やから、逆にゆっくり読んで内容噛み締めるとえぇ。おススメや」

 その後も。

西尾にしお維新いしんは知ってるな。うちの知る限り現代であの人以上に言葉で遊んでる人を儂は知らん。せやけどそんな西尾の旦那に齧りつこうとしとる新人がいるんや。なかなかどうして根性ほねがある。是非とも嬢ちゃんの感想も聞かせてくれんか」

 と、本屋で読み終えた本を渡す度に新しい本を貸してくれた。

 読書家の間では有名な本から、全く無名な本まで。ジャンルに縛りはなく、偉人も新人も関係なんてなかった。

 そしておじさんは、一度も自分が学校に行っていない事を突っ込まなかった。

 おじさんは毎日来るわけじゃなかったから、その日に仕事をしていたのだろうけれど、会う時間はほとんど一緒だったから、普通は学校に行ってるはずの私が本屋にいる事に疑問符こそ浮かべていておかしくなかったのに、何も言わなかった。

 何も気付いていない様だった。

 だからつい耐え切れずに、私から切り出してしまった。

「私のこと、何も訊かないんですか……? 学校行ってるはずの時間に何してるんだ、とか。不登校なのか、とか……」

 本屋でするには気まずい話題だった。

 お客は自分達だけだったけれど、自分達だけだったからこそあまり良いとは言えない雰囲気に満ちて、自分は何を言っているんだろうと、勢いだけで突っ走ってしまった事を激しく後悔した。

 そうしたら、おじさんは一言。

「何なら、何で儂の職業訊かへんかった。嬢ちゃん明らかに初見で勘付いとったやろ」

「それは……」

「儂はお察しの通りの家柄に生まれたからのぉ。ダチなんて出来んどころか、周りは怖がって話し掛けてもくれへんかった。やから一時期、儂も学校に行かれへん頃があったんや。そん時の儂の逃げ場も本屋やった。たくさんの本に囲まれて、全部読んだろう思うて通ってるうち、いつしかそれを見てた学校の子ぉが、儂を見つけて話し掛けてくれたんや。せやから、時間が解決してくれるとは言わへん。もしかしたら読んでる本の中に解決策があるかもしれんし、最悪学校に通わんでも生きていける。せやから何も訊かん。我が訊いて欲しいと言わん限りはな」

「場所、変えてもいいですか」

 何で話そうと思ったのかわからない。

 けれど、この人ならわかってくれるんじゃないかと思った。

 でも、その日買った幾つかの本を持って店を出た時だった。

「こんなとこにいたのかよぉ、詩織ぃ」

 あいつがいた。

 最後に見たのはいつだったか忘れたけれど、最後に見た時と変わらない。

 頭の先から足の先まで、舐める様に見回す厭らしい目。私の事を好きにしてやる事しか考えていない目だ。私がずっと恐れていた目だ。

「ずっと学校来ないからさぁ、探しちまったぜぇ」

 肩を組む腕から逃げられない。

 力も強いが、それ関係なしに恐怖で足が竦んで動けなかった。今にも泣いてしまいたい。泣きじゃくって逃げられるなら、泣きじゃくってでも逃げてしまいたい。

「まさかこぉんなところまで来てるとは思わなかったぜ? 本なんてつまらないもんやめてさぁ、一緒に遊ぼうぜぇ? なぁ」

 今日買った本を袋ごと奪われ、捨てられる。

 中には今日おじさんが貸してくれていた本も入っていたから、それだけは捨てたままにしたくなくて拾おうとしたけれど、彼の腕が首に締まって動けない。

「そんなの放っておいて行こうぜ詩織ぃ。俺がもっと楽しい事――」

「おい。我ぇ、儂のダチに何しとるんや」

 おじさんの手が、彼の肩を掴む。

 余程強い力で掴まれたのか、彼は痛がって腕を振り払おうとして下がったため、自分も離れる事が出来た。急いで本の入った袋を拾い、おじさんの後ろへと隠れる。

「悪いな嬢ちゃん。なかなか五円が見つからんで、手間取ってしもうたわ。で、こいつぁ……」

「……たす、助けて……助けて、下さい」

 辛うじて振り絞った声。

 おじさんは今までにない怖い笑顔で笑ってみせて、任せとき、の一言と共に奴と対峙した。

「よぉ兄ちゃん。どうやら儂のダチが豪い世話になっとるようじゃのぉ」

「誰だおっさん。今大事な話してるんだよ、邪魔だ。失せろ」

「活きがエェのぉ。我ぇどこの学校しまの人間じゃ」

「知らねぇなら教えてやるよ。俺ぁ泣く子も黙るヤクザの組長! 角詠かどよみ組の者だぁ!」

「かぁどぉよぉみぃ……?」

 私は知らないけれど、きっと脅し文句としては成立するのだろう。なんたってヤクザだ。それだけでも普通に怖い。

 だけど、それを聞いたおじさんは少し固まって、顔を覆うと、げらげらと笑い出した。

角詠組うちで我みたいな坊主は見た事ないのぉ。何より親父の息子の顔ぉ、この角詠組双翼の右! 虎の総司そうじが知らない訳があらへんのや!」

 とおじさんが返すと、彼と彼の取り巻きは血の気がさぁっと引いた様子で、わかりやすいくらいに顔の色を真っ青にしていた。

 私はもうおじさんに慣れていたし、おじさんが味方してくれていたから怖くは感じなかったけれど、普通に考えれば本物のヤクザだ。怖いと感じるのは当然である。

 何せ自分の組を騙られたおじさんからしてみれば、憤っても仕方のない事だろうから。

「いや待てよ。儂も知らん末端かもしれんのぉ。どれ、今から他のもんに電話して訊いてみよかぁ。それでもし騙りやったら……我ら、どうなるかわかっとるよなぁ」

「ご、ごめんなさ――」

「なぁにぃ。騙りやなかったらどっしり構えてればえぇ話や。ろ? ん?」

 彼も取り巻きも何も言わせて貰えず、おじさんの電話ですっ飛んで来た男達は、皆が幾つもの修羅場を潜り抜けて来たような屈強な男達で、私がさっきまで怯えてた奴なんて、もう自分と同じ子供にしか見えなかった。

「わざわざすまんかったのぉ、我らぁ。で、問題はこいつや。誰か見覚えのある奴いるかぁ」

「いえ、知りませんねぇ」

「俺も……あぁでも、最近ここらでうちの組を騙る奴がいるって聞きます。もしかしたら……」

「ほぉ。おまえら他のところでもうちの名前出しとったんか。えぇ度胸しとるやないか」

「ご、ごめんなさい! あの、悪気はなくて――!」

「じゃあどんなつもりでヤクザの名ぁ出したか説明してみろや! 悪気やのぉて何のために名前使つこうたか言うてみぃ! 一片でも悪気が見られたら、どうなるかわこうとるんやろなぁ、アホンダラぁっ!!!」

 ずっと怖いと思っていた男子生徒が、おじさんに詰められてぎゃあぎゃあ泣いて叫んでいるのを見て、もう怖く感じなくなってしまった。

 彼と取り巻きがおじさんの呼んだ応援に連れていかれると、おじさんは私の肩を叩いて。

「本の感想、聞かせてくれるか?」

「……はい。また、ここで会いましょう」

 それ以降、私は学校に行く事が出来る様になった。

 先輩が絡んで来る事もなくなり、寧ろ私を見つけると血相を欠いて逃げていくようになったのだけれど、おじさんと組の皆さんがキツく言い聞かせてくれたんだと思う。

 一度おじさんに訊いた事があるのだけれど。

「なぁに。事務所でちょいと説教したっただけや。小説の侠客でもあるまいに、海に沈めたりなんて事ぁ、堅気の人間にはせぇへんよ」

 と、笑って言ってくれたっけ。

 今日も私は、隣町の本屋に行く。

 前と違うのは行く時間と、その後におじさんの事務所に行く事だ。

「よぉ、嬢ちゃん。今日はどれを読むん」

「はい。私は――」

 私はこれからも、この本屋に通い続ける。

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