パタン。

ナカ

閉じた本。

 何でも簡単にデータとして手に入る世の中で、未だに消える気配の無い本という媒体。

 ミニマリストというわけでは無いけれど、家が手狭なため泣く泣く本を買わなくなってしまっていたが、それでも偶には立ち寄りたいと足を止める場所がある。

 そう。今、目の前にある古本屋。

 この日も何となく、私は無意識にそんな店の前で足を止めたのだった。


 大型のチェーン店とは異なり、どことなく古い時代の雰囲気を残す店構えに興味を惹かれたのが一番の理由。

 まだ待ち合わせの時間には余裕があったため、適当に時間を潰したいと思うのも理由の一つとしてあった。

 だから、何も考えずにその店の敷居を跨ぎ店内へと足を踏み入れる。

 余り広いとは言えない店内は、お世辞にも整理整頓が行き届いているとは言えない状態で。私よりも随分と大きな木製の本棚が、私の事を囲み見下ろすように両側に設置されている。その中には大量の蔵書の数々。その殆どは専門書や随分と古い書籍が殆どだが、中には一昔前に流行ったような雑誌や漫画と言った物も混ざっていた。

 ただ、店主はそれらの本の分類に余り興味が無いのだろう。専門書等に関してはある程度は分類ごとに整理されているようだが、流行物に関しては空いた隙間に適当に陳列され、ご自由にどうぞとされている状態である。

 もしかしたらと思い店の奥へと視線を向ければ、想像していた通りカウンターの向こうに座るのは随分と老齢の男性で。客も殆ど来ないと割り切っているからか、うつら、うつらと船を漕ぎ不安定に揺れていた。

「立ち読みするだけだし、いいよね」

 一声かけようかと考え開いた口は微睡みに意識を落としている店主に遠慮して閉ざし、棚の中から適当に引き出したハードカバーの表紙を捲り扉のページに視線を落とす。

 少し黄ばんだ厚口の紙に印字された文字は、少し癖の強い明朝体。丁寧に微調整をして整えていたとしても多少のずれがあるところから今の印刷では無い事が分かる。

 本をひっくり返して発行年月日を確認すれば、矢張りその予想は間違ってはいない様だった。年号が一つどころかそれよりも前に発行されているその本は、どうやら誰かの私小説のようらしい。

 筆者の名前は残念ながら耳にしたことは無い。本のタイトルをネットで検索してみても、残念ながら一件もヒットすることは無い。そんな掘り出し物は見返し部分に鉛筆で八百円と値段が表記されて棚の中に置かれていた。

 勿論、この本を手に取ったのは本当に偶然のことである。

 それなのに、何故か不思議と、私はこの本の頁を捲る手を止めることが出来なかった。


 どれくらいこの本屋に滞在してたのだろう。

「もう、それくらいにしておきなさい」

 不意に掛けられた声に、驚いて肩が跳ねる。

「え?」

「楽しかったかい?」

 いつの間に傍に立っていたのだろう。気が付けば、カウンターの向こうで船を漕いでいたはずの店主が私の隣に立ち、こちらを見てにこにこと笑顔を向けている。

「あ。すいません」

 人の気配に気が付かない程本に熱中していた事に気が付き覚える羞恥心。

「この本、買いますので」

 罰が悪くなり閉じた本を差し出しながら購入する旨を伝えると、店主はそれを断るように首を振りながらカウンターの向こうへと戻っていく。

「あ、あの!」

 慌てて彼の後を追いかけると、手に持った一冊の本をカウンターに乗せ慌てて財布を取り出し小銭を掴む。

「この本を買う必要は無いよ」

 そう言ってカウンターに乗せられた本を手に取ると、店主は困った様に眉を下げながらこう言葉を付け加えた。

「本を読んで面白いと思ったのなら、これ以上の深入りをするのを辞めなさい。そうでなければ取り返しの付かないことになるよ」

 確かに売り物として棚に陳列され値段も鉛筆で表記されていたというのに、どうやら店主がこの本を売ってくれる様子は見えない。

「それは、どういう事でしょうか?」

 その物言いがとても不自然で、思わず聞き返してしまったそんな言葉。

「言葉通りの意味さ」

 静かに広げられた本の頁。そこには先程まで読んでいたはずの文字が行儀良く整列している。

「時間を忘れるほど入り込むのが良いことは限らない。そうなってしまうのなら、儂はお前さんにはこの本を売ってやることができないね」

 皺だらけの手がゆっくりとなぞる紙面に刻まれた黒い列。

「本の中には極稀に、読む人間を引き込もうとする物も在る。お前さんはこの本に喚ばれてしまったようだね。だから、売ることは出来ないよ」

 意味の分からない言葉にどうして良いか分からず戸惑っていると、店主は広げていたページを目の前で勢いよく閉じてみせる。


 パタン。


 その瞬間、私は何かが私の中から逃げ出していったような感覚を覚え後ろを振り返った。

「え?」

「ほらね。危なかっただろう?」


 気が付けば、私は駅前の広場に立っている。改札から姿を現したのは、待ち合わせをしていた友人の姿。彼女は私の存在に気付き、大きく手を振りながら小走りで近付いてきた。

「遅いよ!」

「ごめんごめん!」

 スマートフォンのディスプレイを確認すると、約束していた時間より十分ほどオーバー。遅刻のペナルティはこれから行くカフェのメニューという事にし、私たちは歩き出す。

 そう言えば、と。

 足を止めて振り返った視線の先。

「どうしたの?」

「ん? いや……うん……」

 何でも無い。

 そう答えて再び足を動かしたとしても矢張り気になって仕方が無い違和感。

 古びた紙と少しだけ香る埃と黴の匂い。大量の蔵書はいつまでも売れることの無い年期のあるもので、奥のカウンターでは店主が静かな時間を楽しむようにそれらのページをゆっくりと捲っている。

「さっき、古本屋を見つけたような気がしたんだけど、きっと気のせいだね」

 何故かそんな光景を思い描いたが、私が見たはずの映像は何処にも存在しないことに気が付き感じた寂しさ。

「ねぇ、あのさ」

 今度はそこを振り返らない。目的地へと向かいながら、私は友人にこんな言葉をかける。

「タイミングが会うときでいいから、いつか古本屋巡りをしようよ」

 それがいつになるのかなんて分からない。

 でも、私はもう一度。閉ざされた本の頁を開いてみたいと思っている。


 そこに記された文字が何であるのか。

 そして、それを最後まで読んだら何が待っているのか。


 それを、確かめたいという好奇心を満たすために…………。

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パタン。 ナカ @8wUso

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