第2話

 ファミリーカー並みの速度がゆえ、ハンドリングに意識を集中する必要はなかった。その余裕を活かし、ギアを二速や三速に入れてクラッチを繫ぐ、という涙ぐましい努力をしてみる。だが、水冷四気筒六〇〇ccのエンジンが息を吹き返す気配はまったくない。仕方なく、一一〇〇ccスポーツバイクの後ろを漫然とついていく。

 先行するバイクの走りは、二人乗りとは思えない安定したものだった。低速でのタイトコーナーさえそつなくこなしている。

 時折、パッセンジャーのヘルメットが俊介を気遣うように振り向いた。俊介はそのたびに畏縮した。

 五分ほどでワインディングロードを下りきり、さらに惰性を保ったまま市街地に差しかかった。

 二つの信号をタイミングよく通過できたが、間もなく惰性が尽き、俊介は愛車を道端に停めた。

 しかし、行き交う車の流れに紛れるように、先行のバイクは走り去ってしまった。その太い排気音も、街の喧騒にかき消される。

 俊介は愛車から降りた。

 二百メートルほど先の左側にバイクショップがあるはずだ。俊介はその店に一度も入ったことがない。だが、峠に近いバイクショップといえば、そこ以外に思いつかなかった。

 俊介はヘルメットをかぶったまま愛車を押し出した。平坦な路肩を小走りに進む。

 息が多少荒くなった頃、小さなバイクショップの前に着いた。歩道に五台のミニバイクが並べられ、開け放たれたガラス戸の奥には何台かのスポーツバイクが垣間見えた。

 俊介は愛車のサイドスタンドを歩道に立てると、ヘルメットを脱いだ。汗ばんだ額に春の穏やかな風がすがすがしい。とりあえず落ち着いたところで、グローブをヘルメットに押し入れ、それを小脇にかかえた。

 声をかけようとして店内に一歩足を踏み入れたとき、奥から一人の男が現れた。水色のつなぎの作業服に身を包み、同色のキャップを後ろ前にかぶっている。白髪が伸び気味の、七十代とおぼしき老人だ。それでも、俊介とほぼ同じ百七十センチほどの身長で、太い首と広い肩幅が、屈強な印象を醸し出している。

「こんにちは。あの……キーをオンにしても、まったく反応がないんです」

 俊介はそう告げるものの、老人の威圧的な目つきにたじろいでいた。

「待っていな」

 すげなく答えた老人は、俊介の愛車を店内へと押し入れた。

「突然にすみません」

 老人のあとに続きながら、俊介はその背中に頭を下げた。

「構わない。すぐに調べるさ」

 返ってきたのは抑揚のない声だった。

 店内は事務所と作業場との兼用で、二十坪ほどの広さだった。一番奥に小さな机が置かれ、手前には三台のオンロードスポーツバイクが並んでいる。整備中らしいその三台は、一四〇〇ccのツーリングバイク、一三〇〇ccのネイキッドバイク、四〇〇ccのスーパースポーツバイクだった。

 俊介の愛車は作業スペースの一番手前にサイドスタンドを立てられた。

「息子さんですか? バイクのカップルに先導してもらったんです」

 この老人とあの青年とでは、親子にしては年齢の差が大きいだろう。しかし、俊介はあえて「息子」という言葉を使った。

「……息子」

 壁際の大きな棚の前に立った老人が、背中で呟く。

「奥さんだか彼女だか、きれいな女の人をバイクの後ろに乗せて、どこかへ出かける途中だったようで」

 俊介は手のひらに汗を感じた。

「ふん、またか」老人の仏頂面が、わずかに振り向いた。「以前は年に二回ほどあったが、もう収まった、と思っていたよ。これで最後だといいんだが……トラブルで困っているライダーを見かけると、黙っていられないんだ。そんな夫婦だった」

「――だった?」

 俊介の憶測は確信へと近づいていく。

「いや」

 背中を向けたまま首を横に振った老人は、棚から工具を取り出すと、口を閉ざして作業に取りかかった。

 俊介もそれ以上は声をかけず、静かに俯いた。


 トラブルの原因はヒューズ切れだった。バッテリー交換という事態を免れ、出費は少額で済んだ。

「おれにしてやれることはこれだけだ。あんたも災難だったな」

 老人のぶっきらぼうな言葉に送られ、俊介の愛車は走り出した。

 山々の麓に横たわる片側二車線のバイパスを、東へと向かう。

 俊介は右車線を選び、スロットルを大きく開け、左車線の車の列をごぼう抜きにした。

 そのまま前傾姿勢を維持していると、二十年前の光景が脳裏に浮かんだ。

 ちょうど今頃の季節。穏やかな陽気の週末だった――。


 その日、フルコースを五往復ほど攻め込んだ俊介は、休憩がてら、峠の駐車場で仲間たちとバイク談義に花を咲かせていた。

 三十台ほどのバイクと、それと同じ数の走り屋たち。駐車場はいつものようにごった返していた。

 そんな駐車場に入ろうとした二人乗りのバイクが、対向してきた軽トラックと正面衝突したのだ。どうやら、センターラインを割った軽トラックが、一時停止していたそのバイクに突っ込んだらしい。

 バイクは黒と赤のカラーリングの一一〇〇ccだった。

 レザースーツ姿の二人がバイクとともに飛ばされる瞬間を、俊介は見た。

 だが、大勢の走り屋たちがその二人に駆け寄るのを横目に、俊介はタバコを吸い続けていた。そればかりか、自分の仲間たちが救護の手助けに走ろうとするのを、「出血でもしていたら手が汚れるぜ」と制したのだ。

 路上に転がるパッセンジャーが女性である、とわかるなり、仲間の一人がはしゃぎ出した。「人工呼吸と心臓マッサージはおれがやる」そうわめく始末だった。

 俊介は思わず噴き出し、くわえていたタバコをレーシングレザースーツの膝に落とした。

 カップルが即死状態だったのを俊介が知ったのは、それから一週間後のことだった。


 ――このおれに、バイク乗りの資格なんてない。

 歯を食い縛ると同時に、スロットルを捻る右手から力が抜けていった。愛車の速度が、あっという間に制限速度以下に落ちる。

 抜いたばかりの車の列が、淡々とした走りで左車線から抜き返していった。

 後続車がないのを見定め、一気に左車線を横切り、さらに路肩へと寄る。

 ――これ以上走れるか!

 愛車を停止させた俊介は、エンジンをかけたまま、両足を路面に着けた。

 ――忘れていたんじゃない。

 タンクの上面を両手で押さえ込み、大きく項垂れた。

 低いアイドリング音が「早く走り出せ」と煽り立てた。しかし、俊介は愛車を走らせることができない。

 ――忘れていたんじゃない。逃げていただけなんだ。

 過ぎ去った時間は、二度と取り戻せない。そして、失われた命も。自分の若き日の腐った根性に、俊介はただ翻弄されるばかりだった。

 そんな俊介の周囲を風が吹き抜ける。

「バイク乗りなら、バイクで走り続けてください」

 青年の声が聞こえた。

 ふと顔を上げると、中央分離帯の向こう側を、一台のバイクが走り過ぎていった。黒と赤のカラーリング。二人乗りの大型スポーツバイクだ。ライダーとパッセンジャーは、バイクに合わせた色調のペアルックのレザースーツ姿である。

 俊介は愛車に跨ったまま振り返り、ヘルメットのシールドを上げた。

 走り去るバイクが、うっすらと消えていく。

 あふれる涙に、街並みや山の稜線が揺れ動いた。

 やがて二人乗りのバイクは完全に消え失せ、俊介は一人取り残されてしまう。

 ――走らなければ。

 俊介はギアを一速に入れ、スロットルを開けた。

 走り出した愛車が急加速する。

 メーターが百二十キロを示した。

 俊介と愛車は大気の壁を切り裂いた。

「そう、走り続けて、確かめるんです」

 今度は女性の声だった。

 俊介は横目で右を見た。

 二人乗りのあのバイクが併走していた。

 パッセンジャーの女性が左手をこちらに伸ばした。

 俊介は涙目のまま、自分の手元に伸びてきた女性の左手を見下ろす。

 彼女の左手が、スロットルを握る俊介の右手と重なった。

「確かめてください、ぼくの無念を」

 青年が言った。

「確かめてください、わたしの無念を」

 女性が言った。

 あらがえなかった。

 女性の左手に力が入った。

 スロットルが大きく開く。

 大気の壁が固くなった。

 上体を伏せなければ風を切れない。だが、手遅れだった。車体がバランスを失い、大きく震えた。

 メーターが二百二十キロを示していた。

 刹那、老人の言葉が、脳裏によみがえる。

「あんたも災難だったな」

 緩い右カーブを曲がり切れず、防壁に激突した。

 俊介と愛車が宙を舞った。

「父さんが直したバイクだから、あっという間に確かめられるんですよ。あなたが探していたのは、これなんです」

 青年のその言葉を聞いて、俊介は得心した。

 もう何も迷わない。

 俊介の旅は終わった。

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風の呼び声 岬士郎 @sironoji

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