風の呼び声

岬士郎

第1話

 思い出せない何かを求めて、俊介しゅんすけは旅に出た。

 一年ぶりのバイクツーリングだ。

 しかし、忘却の彼方にある何かを俊介は恐れていた。

 それがなんであっても受け入れなければならない。

 たった一人で確かめなければならない。


 コンビニエンスストアの駐車場で、俊介は車止めに腰を下ろした。缶コーヒーを飲みながら、愛車である六〇〇ccスポーツバイクのフロントマスクを見つめる。自宅を出発して二日目だが、フルフェアリングライムグリーンの車体はきれいなままだ。

 思えば、この二日間は晴天が続いていた。天気予報を確認したが、一週間以内の雨の心配はない。気温のほうも、お気に入りの黒いシングルライダースジャケットで走るのによい具合だ。

 どこかで梅が花を咲かせているのだろうか、甘い香りが漂っていた。春の日差しと相まって、軽い眠気を誘われる。

 俊介は缶コーヒーを飲み終えると、北に広がる山並みに視線を移した。一番手前の山肌に細く浮かんで見えるのは、白いガードレール――幾重ものコーナーを繰り返すワインディングロードだ。

 走り屋全盛期、俊介はそのワインディングロードの常連だった。三十キロほど離れた学生寮から、二五〇ccスポーツバイクで足繁く通ったものだ。三十年前――俊介が大学生時代のことである。

 ――あそこには、何かがあるんだ。

 小さなため息をついた。

 一泊目の川崎の実家を発った今朝は、土産を何にするかで頭がいっぱいだった。妻と大学生の息子には、クッキーかキーホルダーか。昨晩世話になった実家の両親には、まんじゅうかせんべいか。

 数時間前までのそんな浮ついた気分が噓のようだ。

 俊介は立ち上がり、ジーンズの尻を軽く払った。

 空き缶をゴミ箱に捨て、ミラーにかけておいた銀色のフルフェイスヘルメットをかぶる。

 ――二十年間忘れていた何かが、あるに違いない。

 グローブを装着する手間がもどかしかった。

 シートに跨り、両足でバックさせながら愛車の向きを変える。

 エンジンをかけてスロットルを小さく煽ると、ノーマルマフラーの奏でる排気音が湿っぽく感じられた。


 市街地を北に離れると、すぐにワインディングロードに差しかかった。山の斜面を覆う雑木林は、眺望を妨げるほどではない。標高を増すごとに、麓の情景が広がっていく。

 とはいえ、そのワインディングロード自体は快適とはほど遠く、路面のところどころに亀裂が走り、路肩の雑草などは伸び放題だ。かつての公道サーキットは、今や見る影もない。

 俊介は注意深く愛車を走らせた。膝擦りコーナーリングは、すでに勘どころを忘れている。ましてやこの路面では、過激な走りは不可能だ。

 ふと、若き日の風を感じ、左のタイトコーナーに飛び込んでみる。しかし、路面のうねりにハンドルを取られ、立ち上がりで対向車線にはみ出してしまった。

 俊介は舌打ちをすると、再び慎重な走りに専念した。いくつものタイトコーナーを、ゆったりとした速度で確実にクリアしていく。

 やがて雑木林は途切れ、道の右側に広い駐車場が現れた。

 俊介は愛車を駐車場に滑り込ませると、その中ほどでエンジンを切り、ヘルメットを脱いだ。

 風はなく、遠くに街の喧騒が聞こえる。

 土曜日であるにもかかわらず、この峠でバイクとは擦れ違わなかった。車でさえ見かけていない。

 アスファルトの駐車場も閑散としており、小さな草むらが点在している。

 軽く辺りを見渡した俊介は、ヘルメットをミラーにかけてグローブをタンクの上に置くと、荒れ放題のアスファルトの上に降り立った。

 リアシートにロープで無理やり括りつけたタンクバックから、キシリトールガムのケースを取り出し、一粒だけ口にほうり込む。タバコをやめて以来、十年間続いている習慣だ。

 ――これが、あの峠かよ。

 ガムを嚙む顎に力が入った。

 先ほどのコンビニエンスストアで休憩を取るまでは、この峠に立ち寄るつもりはなかった。だが、大学を卒業する以前から感じていた正体不明のわだかまりが何か、ここに来ればわかるような気がしたのだ。

 俊介は駐車場の南端に立ち、麓の街並みを見下ろした。

 今では知人など誰一人としていない街――そして記憶の隅に残るだけのこの峠。異郷の景色は寡黙を守り、何も教えてくれない。

 無駄足を踏んだと悟り、街並みを見下ろしながら肩を落とした。後悔の念に打ちひしがれ、早々に峠を下りることにした。

 俊介は愛車の元に引き返し、セルボタンを押した。

 しかし、反応がない。

「あれ?」

 キーを捻り直しつつ視線を落とした俊介は、インジケーターランプが点灯しないことに気づいた。燃料ポンプの作動音もない。

 ヘルメットとグローブを地面に置き、押しがけを試してみるが、二分ほどで音を上げた。

 ――やっぱりFIじゃ無理か。

 フューエルインジェクションを侮った自分を嘆き、肩で息をしながらサイドスタンドを立て、空を仰いだ。

「ああ――」と思い当たることが一つだけあった。前回の車検で、弱っていたバッテリーを安価な二流品に替えていたのだ。

「まったく! スマホがあったって、どこに助けを求めればいいんだ!」

 思わず自分自身に悪態をついた。

 寂寥とした空気の中、焦りだけが俊介の心に渦巻く。

 太い排気音が周辺に響き渡ったのは、一陣の風が俊介の足元の砂を巻き上げたときだった。

 振り向けば、麓の街の方角から一台のバイクが走ってくる。

 通り過ぎることなく駐車場に入ってきたバイクを見て、俊介は口の中のガムを呑み込んでしまった。

 愛車に並んでエンジンを切ったバイクは、一九八八年以前の型の一一〇〇ccスポーツバイクだった。しかし車体には新車同然の輝きがあり、黒と赤というカラーリングも古さを感じさせない。

 その一一〇〇ccスポーツバイクは二人乗りだった。ライダーもパッセンジャーも、バイクに合わせた色調のシンプルなツーピースレザースーツを身に着けている。白いフルフェイスヘルメットさえペアルックだ。

 駐車場に降り立った二人は、まるで申し合わせたように、それぞれヘルメットを脱いで小脇にかかえた。

 ライダーは二十代なかばの青年だった。中肉中背で、スポーツ刈りのヘアスタイル。端麗な容貌だが、表情は至って穏やかである。

 そんな彼に寄り添うのは、同じ年頃の聡明そうな女性だ。ウェーブのかかったセミロングヘアで、透き通った瞳と整った鼻筋が美しい。

「こんにちは」

 三人がほぼ同時に言った。

「こんなところでバイク乗りと会えるなんて、珍しいなあ」

「そうね」

 と微笑み合うカップルを前にして、俊介は硬直していた。平静を装うとするが、口元の引きつりを緩められない。

「三重だなんて、そんな遠くから……」

 女性が俊介の愛車のナンバープレートを見ながら目を丸くした。

「まとまった休暇が取れたので」

 俊介はなんとか笑みを浮かべた。

「それはいいですね。これからどちらへ?」

 青年が尋ねてきた。

「群馬に宿を予約してあるので、この近辺をあちこち回りながら北上するつもりだったんですが――」俊介は躊躇するが、口が勝手に動いてしまう。「バッテリーが完全に逝ったみたいなんです。エンジンがまったくかからなくて、どうしようかと悩んでいました」

「まあ」

 女性の顔が切なげに曇った。

「旅の途中で災難でしたね。でも、大丈夫ですよ」青年は笑顔のまま言った。「ぼくの家はバイク屋で、この峠の麓なんです。バッテリーの在庫もあると思いますよ。トラックで運んでもいいんですが、一度帰ってからさらに往復では、時間がかかりすぎますね。ずっと下り道だし、惰性でなんとか辿り着けるでしょう。ぼくたちのあとについてきてください。そのほうが早く済みますよ」

「いや、あの――」

 俊介は言い淀んだ。

「もしかして、この峠を越えて群馬側へ入るつもりだったんじゃないんですか?」

 ヘルメットを胸の下に両手でかかえ直した女性は、憂いを隠し切れない様子である。

「そうではないんですが、あなたたちこそ、どこかへ出かける途中だったのでしょう?」

 明らかに自分より若い二人に対し、俊介は丁重な態度を崩さなかった。

「気にしないでください。すぐ近くなんです。――な」と青年は女性を見た。

「うん。私もそれがいいと思う」

 女性は笑みを取り戻し、青年に頷く。

「そこまで言っていただけるのなら、よろしくお願いします」

 俊介は青年に頭を下げつつ、自分を落ち着かせようと必死だった。

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