あなたにぴったりな一冊を

柚城佳歩

あなたにぴったりな一冊を


反省十秒、立ち直り三秒。

過ぎた事は振り返らない。

自他共に認める楽天家。


そんな俺にも一つ後悔している事がある。

大人になった今でも忘れられない事が。




小学二年生の春、クラスに転校生がやって来た。

転校生なんて初めてで、最初のうちは物珍しさもあって、休み時間の度に机を中心に人集りが出来るくらいに盛り上がったそうだ。


転校生の名前は日比谷ひびやれん

すらりとした手足にピンと伸びた背筋。

ほとんどが黒か赤のランドセルのやつばかりの中、艶々の青いランドセルだったのも、一際垢抜けてかっこよく見えたんだと思う。


けれどそれも二日もすればすっかり落ち着いて、積極的に話し掛けていたやつらも興味が薄れたのか、それぞれ仲の良いグループへと戻っていった。


……と、これは後から聞いた話で、当の俺はその二日間とも家にいたので、第一印象といえば“登校したら知らないうちに隣の席に見慣れないやつが座っていた”くらいのものだった。


どうして二日も学校を休んだのか。その原因は今思い返しても我ながら馬鹿だなぁと思う。

原因は様々だろうが、学年に一人か二人、腕を骨折した事のあるやつがいたと思う。

まさに俺がその一人だった。


春休み中、母の小言を右から左に受け流し、自堕落な生活を送っていた俺は、新学期初日、けたたましい目覚ましの音と母の大声に起こされた。

まだ覚醒しきらない頭を揺らしながら、半分目を閉じたまま一階へ降りようとして、階段を踏み外した。


普段なら無意識的にでも受け身を取ってくれる自分の体も、流石に起きてすぐは反応出来なかったらしい。

運悪く前のめりに転んだ俺は、階段を踏み外した上に右腕を骨折し、眠気も一気に吹っ飛ぶほどの経験した事のない痛みに泣きじゃくった。


そんな状態の俺に、母も叱る気を削がれたんだと思う。

呆れと心配が入り交じった顔をして、すぐに病院へ連れて行ってくれた。

診察やら会計やら諸々の手続きが終わった頃には既に始業式なども終わっている時間だったので、その日はもう学校には行かずに家で大人しくしていた。


本当は翌日には登校出来たのだけれど、利き手が使えない不便さと、もっと休んでいたいという気持ちから母に頼み込んで、もう一日だけ休む事を許してもらったのだった。


そうして知らない間に増えていたクラスメイトは、一人が苦にならないタイプらしく、どこのグループにも属する事なくいつも静かに本を読んでいた。

単純だった俺は、そんな姿が大人っぽくてかっこいいと密かに思ってもいた。


「それ、どんな話?面白いの?」


本なんて漫画しか読まなかったので、文字ばっかりの小説の何が面白いのかとある時聞いてみた事がある。

蓮は少し考えた後、タイトルすら聞いた事のなかった俺にもわかりやすく、とても面白く説明してくれた。

話してみてわかったけれど、蓮は好奇心旺盛で大人が顔負けするくらい博識なところもあって、そして結構喋るのが好きなやつらしかった。

そんな蓮の話を聞くのが、段々と楽しみになっていった。




うちの校長は新しいもの好き、というのは児童の間でも有名だったけれど、考え方がとても柔軟で、先を見る力もある人だったんだと今は思う。

当時、高校や大学でもまだそこまで普及していなかっただろうオンライン授業を逸早く取り入れたのも校長だった。


俺が入学して間もなく出されたらしいその提案は、当然ながら小学生にはまだ早いとか、そんなものそもそも必要ないとか、保護者側だけでなく、教員側からも反対があったらしい。

でも、学校に行くのを苦痛に感じるという子どもの親の声や、その手の機材に詳しい先生がいた事もあって、約一年の時を経ていよいよ実現された。


校長ほどではないにしても、俺だって新しいものには興味をそそられるわけで。

一度でいいから家からオンラインで授業を受けてみたい!という願いは、俺の事を熟知した母の「あんたが家で勉強に集中出来るわけないでしょ」の一言であっさりと却下された。


同じようなやり取りがあったのまでは定かではないが、大半の児童はそれまで通り普通に登校して、教室で授業を受けるというスタイルから変わる事はなかった。

うちのクラスでオンライン授業を利用し始めたのは一人。それが蓮だった。


蓮は週の半分ほどを自宅でオンライン授業を受ける事にしたらしい。

会う頻度は減ったけれど、顔を合わせればまたいろいろと話をしたり、たまに一緒に遊びに出掛けるくらいには仲が良かった。


蓮の転校が決まったのはその年の夏休みが近付いた頃だった。

こんなに早く、と驚く俺に、蓮は「元々ここにはちょっとしかいられない予定だったから」と淋しそうに笑った。

七月最後の日に引っ越しで、今は荷物を片付けているところだと言う。


「よかったら見送りに来て」


遠慮がちに言う声に被せるようにして、「絶対行く!」と約束した。


だけど俺はその約束を自分から破ってしまった。




七月末。蓮の引っ越しの日。

うちに歳の離れた従兄弟の兄ちゃんが遊びに来た。いつも相手をしてくれる優しい兄ちゃんが物心付いた頃から大好きで、その日も俺は隣から離れなかった。


「映画でも観に行くか?」


夏休みに合わせて公開された戦隊ものの特撮映画は、俺が観たいと毎日言っていたもので、その誘いにすぐさま頷いた。

兄ちゃんの手を引っ張るように家を出たところで思い出したのは蓮との約束。

嬉しくてはしゃいで頭から抜けてしまっていたけれど、今日は蓮が引っ越してしまう日だ。

今日会わなければ、この先もうずっと会えなくなるかもしれない。

でも、普段仕事で忙しい兄ちゃんと映画を観られるチャンスなんて滅多にない。

少し迷った末、映画が終わった後に会いに行けばいいと結論を出して、まずは楽しむ事に決めたのだった。


俺はつくづく単純で、馬鹿なやつだと思う。

映画を観終わった俺の頭の中は、かっこいいヒーロー達の活躍で埋め尽くされた。

記念にと買ってもらったフィギュアを片手に、レストランでハンバーグを食べ、寄り道しながら大満足で帰宅した頃にはもう空が暗くなり始めていた。

あ!と思い出した時には既に遅すぎて、結局蓮とはそのままになってしまったのだった。




そんな昔の事を思い出したのは、小学校からの付き合いになる友人の結婚式に先日行ってきたからだった。

懐かしい顔触れを見ているうち、そういえば、とふと思い出したのだ。


あの時、映画に出掛ける前に一言でも兄ちゃんに伝えていたら違っていたかもしれない。

いや、それ以前にもっと別の方法があっただろう。引っ越し先の住所を聞いておくとか、うちの電話番号を教えておくとか、会うのを前の日にしてもらうとか。


今更どうしようもない事をぐるぐる考えながら通りかかった公園に、見慣れない一台の車が停まっていた。

ワゴン車というのだろうか。四角っぽい、荷物をたくさん積めそうな車の脇に、キャンプ場で見掛けるような折り畳み式の椅子に座って本を読んでいる人がいた。


少々派手な色合いの服を纏った男性はどこかミステリアスな雰囲気があって、ともすると「ダサい」で済まされそうな組み合わせの服も、その人が着ていると不思議とお洒落に感じた。

少し視線を横にずらせば、黒板タイプのスタンド看板にチョークで“縁”の文字がある。


何だろう、占い師か何かか。

そう見えると言えば見えなくもない。

もしくはキャンプが趣味の人とか?

でもわざわざ公園で、スタンド看板まで置いてそんな真似するだろうか。

あまりにじっと見ていたからか、俺の視線に気付いたらしいその人が声を掛けてきた。


「こんにちは。お客さんかな」

「えっ、いや、ちょっと通りかかっただけで」

「そんなところに立っていないでこちらへおいでよ。ほら遠慮なんかしないで。うちは本屋をやってるんだ。そこに看板があるだろう。えにし書店というんだ。君にぴったりの本を選んであげよう。絶対に後悔はさせないよ」


“絶対に後悔はさせない”


その言葉がさっきまで考えていたものと重なって、俺の足を引き止めた。


「……じゃあ、お願いします」




占い師と言われた方が、まだ信じられたかもしれない。

“エン”と名乗った男性は、向かい合う位置に置かれた折り畳み式椅子に俺を座るよう促すと、簡易コンロで湯を沸かし紅茶を淹れ始めた。

一応は本屋を謳っているというのに、本の紹介もされなければ、手に取れる場所に並べている様子もない。

面倒臭いやつに関わってしまった。

本当に本屋だというのなら、もう適当でもいいから何か一冊買ってさっさと退散しよう。

そう思い始めたタイミングで手渡されたティーカップからは、良い香りが漂っている。

たまに飲むティーバッグの紅茶とは比べるまでもなく、紅茶に詳しくない俺でも良い茶葉なんだろうとわかる。


「まずはそちらをどうぞ。落ち着くよ」


言われるままに飲んで一口、お世辞でも冗談でもなく、今まで飲んだどの飲み物よりも美味しかった。


「うま……!」

「だろう?得意なんだ、紅茶を淹れるの」


エンさんは日本全国を車で旅する生活をしているらしい。

そうして先々で出会った人からいろいろな話を聞いて集めているそうだ。


「見てわかる通り、うちはそこらの本屋とはちょっと違う。一風変わった本屋なんだ。ここを訪れた人の話を聞いて、それを元に小説にして売っている」

「え、じゃあ縁書店で売ってるのは、誰かの人生とか体験談って事ですか」

「まぁそうとも言えるね。でも勘違いしないでほしいのは、世に溢れてるエッセイやノンフィクションとは全くの別物って事だ。実際に読んでみればわかるだろうけれど、試しにどうぞって渡してもいないから、毎度説明が胡散臭くなってる自覚はあるよ」


最初は早く立ち去りたいと思っていたのに、エンさんと話をしているうち、俺はいつの間にか縁書店の商品に興味を惹かれていた。


「あの、俺にも何か本を選んでもらえますか」

「もちろん。最初に言っただろう?ぴったりの本を選んであげるって。ただし、対価は君の話だ」

「え?」


財布を取り出そうとした手が止まる。

俺の話?自分で言ってて切なくなるが、人に聞かせられるほど面白い経験やネタは持ち合わせていない。

どうしたものかと考える俺に、エンさんが語り掛ける。


「別に特別なものじゃなくっていい。ほら、あるだろう?ずっと心に引っ掛かって、忘れられない出来事が」


忘れられない出来事。

それはもちろん蓮との事だ。

さっきまで思い出していたのもあって、気付けば蓮と過ごした三ヵ月にあった事をエンさんに話していた。


俺は初対面の変なやつに何でこんな事まで話しているんだろう。

いや、逆に知らない人だからこそ話せたのかもしれない。

夏休みの後悔を含め、蓮と出会ってからのあれこれを、他に仲の良かった友達にすら言った事がなかったものまですっかり話してしまった俺は、どことなくすっきりした気持ちになっていた。


「たくさん話してくれてありがとう。とても面白かったよ。さて、それじゃあ今の君にぴったりな一冊を選びましょう」


徐に立ち上がったエンさんが車のドアを開けると、そこにはびっしりと本で埋め尽くされた棚が並んでいた。一種圧巻の光景だ。

エンさんはその中から迷いなく一冊を取り出して、俺に差し出した。


「どうぞ。きっと君を満足させられるよ」




家に帰り、先程受け取った本を手に取ってみる。

青い表紙には、タイトルらしきものはどこにもない。

すぐに開かなかったのは、これも誰かの心に仕舞っていた話かもしれないと思ったのと、昔と変わらず小説とは無縁の人生を送ってきたからだった。

あの時はきっと、エンさんの話に乗せられたんだ。じゃなきゃ俺が小説を読もうなんて思うはずがない。


「……でもせっかく貰ったしな」


意を決して開いて数行。

俺は文字通りの意味で小説の世界に呑み込まれていた。




「何だ、これ」


ついさっきまでソファに座っていたはずなのに、今は何故かどこかの教室の席に座っていた。

開いた窓からは心地好い風が入り込んで、授業をする先生の声、教科書のページを捲る音もする。

意識も感覚もはっきりとしているのに、人の顔や名前は靄がかかったように見えない。


登校から下校までの時間が、まるで走馬灯のように流れていく。

一日がすごい速さで過ぎていく。季節が次々に移ろってゆく。

それなのに、交わされる会話や感情はしっかりと伝わってきた。

視点と景色が次々に変わる。

車、見慣れない風景、またどこかの学校。

長編映画を続け様に見せられているかのようだ。

でも不思議と嫌とは思わなかった。

むしろもっと観たいと感じている。


次の景色に変わる。

その場所には既視感があった。

ちゃんと観たいと思ったからだろうか。

移り変わる流れが緩やかになり、細かい部分まではっきりとわかるようになった。


教室、窓から見える校庭や街並み、登場する人たち、交わされる会話。

既視感じゃない。俺はこの全てを

気付いてしまった。これが誰の話かを。



* * *



周りの子どもより大人びている自覚がある。

両親ともに忙しい人だったから、自分で出来る事を進んで手伝っているうち自然とそうなった。


同じ所に一年以上住んだ事がなかった。

引っ越しばかりで、なかなか親しい友達も出来なかった。

また遊ぼうねと口では言っても、子どもだけでは叶えるのが難しかった。

大好きな本を読んでいれば、一人は苦にならなかった。

でも時々、誰かと話を共有したかった。


──それ、どんな話?面白いの?


小学二年の時、新しく通う事になった学校で、右腕を吊った男の子が話し掛けてきた。

毎日本に触れる自分とは対照的に、小説をほとんど読んだ事がないらしい。

これはシリーズもののファンタジー長編で、映画にもなっていないから、全く馴染みのない人にどこか一部を切り取って説明するのは難しい。

少し迷った末、最初から詳しく話してみる事にした。

途中で飽きてしまったらそれもしょうがないと思っていたのに、その子は最後まで目をきらきらと輝かせて夢中になって聞いてくれた。


その日を切っ掛けに、彼と話すようになった。

本の話が多かったけれど、昨日観たテレビや家族の事、いろいろな話をした。

時々近所の公園で遊んだりもした。

久しぶりに出来た友達。

一緒にいて楽しいと思えた人。


──ごめんな、また引っ越す事になった。


お父さんが申し訳なさそうに言う。

しょうがないよ、お仕事だもん。

そう思うのは本当だけれど、まだここにいたい気持ちも強かった。

せめてこの街にいる最後の日に会えたらいいなと、勇気を出して見送りに来てほしいと伝えてみた。

その子はすぐに力強く頷いてくれた。嬉しかった。


でも引っ越しの日、彼は来なかった。

簡単に約束を破るような人ではないから、きっと何か用事が出来ちゃったんだろう。

最後にもう一度会いたかったから残念だけれど。

優しいところがあったから、この事気にしてないといいな。


そんな友達にずっと言えなかった事がある。

言えなかったというか、わざわざ言わなかったというか。

なんだか気付いていないみたいだったから、いつ気付くかなって楽しんでいたのも秘密。


ランドセルは青だし、髪は短いし、スカートを穿く事もなかった。

声も低い方だったし、背も高かったから、いつも「ぼく」とか「おにいちゃん」って声を掛けられるくらいにはよく男の子に間違われていた。


女の子なんだと。

言ってしまったら、気付いてしまったら、なんだか距離が生まれてしまう気がして言えなかった。


この学校の校長先生は先鋭的な人らしく、転校して間もなく、対面とオンラインでの授業が選べるようになった。

新しいものには人並みに興味がある。

この機会を逃したら、オンライン授業なんてそう受ける機会がないかもしれない。

幸い両親は適度に放任主義な人たちだったので、一人でもちゃんと勉強出来るのならと自宅で授業を受ける事を承諾してくれた。


この場所にいられるのは少しの間だからと、積極的に周りと関わらなかった私には友達と呼べるのはあの子だけだったけれど、あの子には他にも友達がいる。

私ばっかり独占しちゃいけない。

オンライン授業を選んだのにはそういう理由もあった。


あれから十年以上経ったけれど、今でも時々思い出す。

どんな大人に成長したかな。

髪を伸ばしてスカートも穿くようになった今の私の姿を見たらきっと驚くよね。

いつかどこかで会えたなら、またいろんな話をしよう。



* * *



「蓮……!」


いつの間にか夜が明けていた。

居ても立っても居られず、本を持ったままあの公園を目指して駆け出した。

公園には昨日と変わらず大きな車とエンさんの姿があった。


「おはよう。その様子じゃ、ご満足いただけたようだね」

「あのっ!この本、この話をした人にはどこで会いましたか!」

「それは覚えているけれど、これでも一応守秘義務ってものがあるんでね。聞かれてほいほい教えてるようじゃ、プライバシーも何もないだろう」


それはそうだ。でも、それならどうして俺にこの本を渡したんだ!

俺の想いは口に出さずとも正確に伝わったらしい。


「そう焦らずともそのうち会えるよ」

「それっていつです……?」

「そのうちはそのうちさ。縁ってのは、一度しっかりと結ばれたらそう簡単に切れるものじゃない。お互いが望むなら尚更ね。だから大丈夫だ」


結局蓮については何もわからないままだったけれど、せっかく来たのだからと、昨日とは違う茶葉で淹れた紅茶をご馳走してくれた。

エンさんの淹れる紅茶はやっぱり最高に美味しかった。




一週間後、少し遠出をした時に、気紛れにふらりと入ってみた書店で蓮と偶然再会する事になる。

先に気付いたのは蓮の方で、俺は記憶の中の印象と全く違う姿に、声が出ないくらい驚いた。

でも笑った顔があの頃と重なって、また昔みたいにいろんな話で盛り上がった。


“縁ってのは、一度しっかりと結ばれたらそう簡単に切れるものじゃない”


それならいつか、あの一風変わった店主にも再び会える日が来るかもしれない。

その時には紅茶に合うお菓子を持って行こう。





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あなたにぴったりな一冊を 柚城佳歩 @kahon

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