一瞬のためらい

 駅前に古くからある老舗の本屋。

 高校2年生の息子の母である朋美は、本を買うためにごくごく自然にその店に足を踏み入れた。


 今はほとんどの本をネットで購入するようになってしまっているが、たまたま買い忘れた新刊本の存在を出先で思い出し、駅前にあるこの店に寄ることにしたのだ。


 人気のある作家の新刊本、ずっと読み続けている長い話の続編で、楽しみにずっと待っていたというのに、このところの忙しさにかまけて忘れてしまっていた。帰ってネットで注文しても到着は明日以降になるだろう。だったら帰り道で買ってしまう方が早いというものだ。本当にそれだけの理由で立ち寄った店での一瞬の出来事。


 店内は以前来た時とそれほど変化がないように思えた。

 レジに1人、アルバイトらしい若い女性が立っていて、他には店員の姿は見えない。お客はちらほらぐらい。もしかすると、午後の半ばのこの時間はそれほど忙しくないのかも知れない。


 朋美は目的の本を求めて新刊本コーナーへと向かった。

 

 レジ近くに「本日発売」とカラフルなポップで飾られたコーナーがあり、そこにお目当ての本を見つけた。

 人気本だけに平積みになっていて、仕入れた冊数も多いのか幸いにして売り切れてはいなかった。

 朋美は一冊を手にして、久しぶりに本屋に来たついでにどんな本があるのか、少し見て回る気になった。


 ふと視線を移動すると、見たことのある少年の姿があった。


(あら、聖人まさと君だわ)


 近所の高校生、息子と同じ高校、同じ学年の男の子だ。家は近いが自治会が隣、という距離感の家の子だった。


 何の本を探しているのだろう。なんとなく気になった。

 なぜなら、そのコーナーは、その年齢の少年はまだ買ってはいけないのではないのか、そう思えるコーナーだったからだ。


 そうしてそれとなく視線を向けていて、


(あ!)


 朋美は思わず心の中でそう声を上げた。


(万引き……)


 その少年は一冊の雑誌を手にすると、周囲を軽く見渡して急いで制服の上着の下に入れた。


(どうしよう……)


 いっそ全然知らない子なら店員に言えたのだろうが、なんとも中途半端に知っている子だけに躊躇ちゅうちょした。


 このまま知らない顔をしようか。そうも思ったが、それはそれでなんとなく自分を許せない気もした。


(どうしよう、どうしよう、どうしよう)


 朋美は、まるで自分が窃盗行為を行ったかのように心臓がドキドキして、顔に汗が吹き出すのを感じていた。


 声をかけようと思うのだが、体が動かず声も出ない。


 少年は朋美には気が付かなかったようで、そのまま、上着の下にある持っていてはいけない本を隠すようにしてカバンを抱え、早足で横を通り抜け、そのまま店外へ出てしまった。


 その時、


「君、ちょっと待って」


 店の名前を染め抜いたエプロンをした、40代ぐらいの男性にしっかり手を掴まれた。


「まだ精算してない本、持ってるよね?」


 男性の声に少年は少し身を固くして、


「あの、今から払おうと思っていて……」

「店を出てから外で?」


 男性は少年の言葉にかぶせるようにそう言って、


「ちょっと奥に来て」

「ごめんなさい! お金払いますから、ごめんなさい!」

「そこに張り紙あるよね、本買ってるぐらいなら、字、読めるでしょ?」


 抵抗する少年を引っ張って奥の部屋へと連れて行った。


『万引きはいかなる理由があろうとも警察や家族、学校、職場に連絡いたします』


 朋美は見るともなくその文字を目で追っていた。


 本屋では万引きがとても多いらしい。その損失のため、ただでさえ売上げが下がっている小さな店は閉店せざるを得ないと、テレビのニュースで見たことがある。

 なので、この店も厳しく取り締まっているのだろう。

 店には監視カメラがあった。あの男性店員は、奥で見ていて犯行に気がつき、急いで追いかけて出てきたのかも知れない。


 「万引き」は「窃盗」という犯罪だ。

 たった一度、たった一冊、出来心の少年にきびしいのではないか、とはとても言える状況ではないと、朋美にも理解できた。


 朋美は手に持っていた本の代金を支払うと、その場を逃げるように離れ、急いでバスに乗って帰宅をした。ずっと心臓が早鐘のように打っている。


 聖人君はどうしたんだろう。

 警察に通報されて、そしてどうなるんだろう。

 家にも学校にも連絡されるんだろうか。

 家族はどう思うんだろう。

 

 会えば軽く頭を下げる程度の知り合いである、少年の母親をぼんやりと思い出す。


 自分はどうしたらよかったんだろう。

 あの時、本を隠すのを見つけた時に声をかけていたら、そうしたらあの子は罪を犯さずに済んだんだろか。

 でも、そんなことをしたら自分が恨まれたかも知れない。

 それを思うとそうする勇気もなかった。

 

 もしも、あれが自分の息子だったら。

 そう思うと、恐ろしくて身が縮む思いだった。


 自分が行動できなかったことで聖人の人生は違う方向に進んでしまったのだ。

 勇気を出していたら、今頃はすっきりした気分で晴れやかにこのバスに乗っていたのかも知れない。

 自分の一瞬のためらいが、一人の少年のこれからを変えてしまったのかも知れない。 

 でも、だったら、どうしたら。


 でも、でも、でも……


 バスの揺れに身を任せながら、朋美は答えの出ない答えを探し続けるしかできなかった。

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たそがれの店/一瞬のためらい(KAC20231参加作品)  小椋夏己 @oguranatuki

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