あの子はここにいるから

山田とり

 商店街で古本屋のワゴンに積まれた絵本が視界に入り、息が止まった。

 あの子が大好きだったお話があったから。


 突然立ち止まった私に、後ろを歩いていた人がぶつかった。無言で睨んで通り過ぎていく。私は表情を失くして身動みじろぎもしなかった。


 しばらくして、よろけながら息をついた。

 呼吸を忘れていた。


 店先の雑多な安売りの書籍。私は目を逸らした。とても見ていられない。でも、立ち去ることもできなかった。


 あの子の絵本はどうなっただろう。


 見るのも辛くて捨てたと思う。いえ、お棺に入れてあげたのだっけ。よく憶えていなかった。

 どちらにしてもここにあるのは、あの子が抱きしめたあの絵本じゃない。そのはずだ。


 でももしこの本に、あの子の描いた落書きがあったら?

 ぐいぐいと迷いなく描いた伸びやかな線。笑う声。色鮮やかな、あの子の存在の記録。

 そんなわけない、違う誰かのでしょ。私は心に繰り返す。



 何度も何度も読んで聞かせた、私とあの子のおやすみなさいの絵本。消えてしまったあの本は、もう燃えたのだろうか。溶かされて何かに還ったのだろうか。


 あの子は燃えて、そしてどこに還っただろう。



 私はおそるおそる古本を手に取った。震える指で裏表紙をめくる。そこにあの子の落書きは、なかった。

 ね。

 何故かほっとした。



 深呼吸して空を見上げた。

 手の中の絵本は軽い。とても軽い。抱いていた子の体重を、私の腕はもう忘れてしまったかもしれない。ううん、そんなことはない。私は忘れない。忘れないよ。


 私の記憶。私の心臓。私の皮膚感覚。

 あの子はここにいて、まだずっとここにいて、私を哀しみに突き落とす。

 そして、私を永遠に幸せにする。

 あの子の記憶。あの子の鼓動。あの子の柔らかな肌は確かにあったのだから。



 この絵本は買わない。買っても仕方ない。そう、あの子はこの絵本にはいない。私の中にいる。

 私は微笑んで――そして、絵本をワゴンに戻した。


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