第59話

 一年の後、あやめは女児を出産した。色の白い玉のような赤子を抱いて、あやめは顔を綻ばせた。


「未だ、戸隠の里からはなんの沙汰もございません」 

 猿は人気のない山奥で一人産気付いたあやめを不憫に思うあまり、苛立ちを隠しきれていなかった。


 あやめは女児に乳を含ませながら呑気に言う。

「便りがないのは良い便りと言うではないか。そもそもこちらとて、産まれたとも報せてはおらぬのだ」


「跡目争いの筆頭 宗兵衛様の血を引くやや子が産まれたとなれば、反対派にとって目の上のたんこぶ。必ずや抹殺の手が伸びましょう!」


「それ故ここで大人しゅうしておるのじゃ。私はこの子を護らねばならぬ」

 そう言うあやめは既に母の顔をしていた。


 幸いあやめは産後の肥立ひだちもよく、一週間もするとゆっくり庭を散歩するほどに回復した。


 あやめたちが身を寄せていた小さな小屋の前には池があり、夏の水草たちが色鮮やかに共演していた。

「そろそろ名前をつけてやらなきゃねぇ」


 あやめの後ろで女児を抱き、あやしていた猿は「確かに」と唸った。


「私はね、自分の名前が嫌いだったんだよ」

 唐突にあやめは語り出した。

 猿の腕の中で女児は真っ黒な目でまっすぐに母あやめをとらえていた。

 あやめは猿から女児を受けとると、それはそれは大切そうに胸に収めた。


「あやめは殺めるに通ずるってね。私は人を殺すために産まれてきたのかと一時この名前を毛嫌いしていたのさ。そんなとき、宗兵衛様は言ってくれた」

 水辺に咲き誇る花を見せるように、あやめは女児を抱き直す。


「水の流れに揺蕩たゆとうて咲く花々は夏の日に、一服の涼を与えてくれる。

 この水涼花の中でも、わしはあやめによく似た花菖蒲が一番好きじゃ。凛と気高くまっすぐに、高貴な紫の花をつける」


「宗兵衛様のそのお言葉で私は自分の名を誇れるようになった」

 あやめは女児をしっかと胸に抱き締め、大切なことを言い含めるようにその耳元でゆっくりと言葉をつなぐ。


「宗兵衛様の好きなものを名に含めれば、勘の良い者が出生を疑おう。

 だがそうだな、これならば他の者には気づかれまい。

 そなたの名は『お涼』

 水辺に咲いて人の心を涼やかに癒す。そなたの父が愛した名、母によく似た花の名じゃ。明かせぬ秘密に辛い思いをさせるやも知れぬ。だが父も母も、そなたを思うておることをゆめゆめ忘れてくれるなよ、お涼」


 池のほとりには紫色の花菖蒲が、まっすぐ天に向かって咲いていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

徒花 仁科佐和子 @sawako247

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ