トランシーバーをはこぶ猫

古川流桃

トランシーバーをはこぶ猫

 玄関扉の下のほうにある切れ込みが、パカッとこちら側に開く。猫が顔をのぞかせて入ってきた。ぴんと立った耳、まるい背中、慎重な前足。キナコだ。

 うにゃーと鳴く。空腹の合図だ。

 キナコは灯りのついていない家の中を歩いて、台所までやってきた。床にはドライフードが散乱している。ポリポリと小気味よい音を響かせて、食べ始めた。

 幽霊の私には身体がないので、キナコには見えない。だから近づいていっても、キナコは気づかずに、ドライフードを食べ続ける。

 さらに近づいていくと、キナコが冷気を感じてぶるぶるっと体を震わせる。

 キナコの小さな額のほうに回りこみ、私とキナコの頭が重なるくらいまで、近づく。

 私は何も感じなくなる。何も見えない、聞こえない。

 しばらく――数秒なのか、数時間なのか分からないけれど――待っていると、かすかな振動を感じる。ナッツを噛んだときに似ている。ポリポリという音と振動が響いてくる感じがする。

 視界が戻ってきた。ぼんやりとした光が像を結び、ドライフードが散らばった床が見える。

 キナコに憑依できた。

 猫の頭部のコックピットに入り込んだような感じがする。カプセルや繭のように閉塞感があるけれど、外が見えたり聞こえたりする。

 視界が上下に動き、目の前の景色がこちらに迫ってきて、ドライフードがアップになる。キナコが歩いては食べ、歩いては食べを繰り返しているのだろう。

 私はキナコを動かしたいのだけれど、本当のコックピットではないので操縦桿がない。

 教えられたとおり、前面の壁を押すように、自分の意志を前方に寄せていく。キナコが抵抗して踏みとどまり、私は壁に押し返される感覚がある。さらに意志を前方に寄せると、キナコがよたよたと二、三歩進んだ。

 何度かそうやっているうちに、キナコを誘導できるようになった。

 それにしても疲れる。

 誘導をやめると、キナコは好き勝手に動く。キャットタワーに乗ったり、猫じゃらしで遊んだりしている。

 私の体力、いや精神力のようなものが回復してきた。

 キナコを隣の部屋に誘導する。デスクの上にジャンプさせ、頭を動かしてあたりを見回す。二台のトランシーバーが見えた。人間の手のひらに収まる程度の、小さくて薄い直方体だ。ひとつには焦げ跡がある。

 もうひとつのきれいなトランシーバーのストラップに、首をつっこんでくぐらせる。それから右の前足を入れた。キナコがトランシーバーをたたすき掛けしたことになる。

 しゃがむと、胸から垂れ下がったトランシーバーが、地面に擦れる。立ち上がって歩けば、擦れたりしない。上体を起こして、ぶるぶるっと胴体を震わせると、トランシーバーを背中に担げる。ジャンプするときには、動きやすそうだ。

 玄関のペットドアから外に出る。深夜だが、夜目のきくキナコには見えているのだろう。私にも景色がよく見える。

 キナコに後ろをふり返らせる。おばけ屋敷と呼ばれた自宅がが、静かに佇んでいた。

 

「おばけ屋敷と呼ばれていますが、お客様の条件にぴったりです」と、不動産屋が見せてくれた物件写真には、妙な光が写り込んでいた。おそらく光学的な現象だろう。内見中、うすら寒い家屋には誰もいないのに物音がして、不動産屋はいちいちびっくりする。傷んだ家屋というのは、ちょっとした振動や温度変化で軋むものだ。

 静かで手ごろなので、すぐに入居を決めた。自主退職で社宅を出る日程的にも、都合がよかった。四十五歳の誕生日を、新たな家で迎えられた。

 しばらく仕事をしなかったので、ドアの隙間をパテで埋めたり、雨戸の戸車を交換したりして、ゆっくり家の手入れをして過ごしていた。

 小さな裏庭で草をむしっていると、カラスがカァカァ鳴きながら、しつこく庭に降りてくる。私は傘を振り回して追い払ったが、何度もやってくるのだ。

 カラスが降りてくる庭の隅を見ると、茶色い猫が、小さくなっていた。

 私が「おいで」と言いながら、猫に手を差し出すと、横をすり抜けて走り去った。

 けれど、翌日から、その猫は庭の隅に居座るようになり、結局、私は飼うことにした。動物病院に連れていき、獣医に言われるまま、風邪の治療、ノミの薬、予防接種をした。逃げ出したときに識別できるようにマイクロチップも埋め込んだ。その他、飼い猫に必要な処置やグッズに結構な金額をかけてしまった。

 カルテに名前を記載すると言われ、私はその猫にキナコと名づけた。丸くなって寝ている姿が、きな粉のおはぎのようだったからだ。

 三ヶ月ほどたって、再就職の準備で出かけることが増えた。一日中猫と遊ぶわけにはいかない。それで私はボール形の教育用ロボット玩具を買ってきた。ちょこちょこ動き回ったり、急に止まったりするようにプログラムすると、キナコは追いかけ回した。

 ボールロボットは、ときどきキュイーンとモーターをうならせ、狂ったように暴れることがあった。リセットしても再発する。メーカーのサポート窓口に電話すると、私が筐体を開けたことを理由に、交換を拒否された。

 私はボールロボットをフリマアプリで売り払い、代わりに猫じゃらし風のおもちゃを買い漁った。キナコは飽きっぽいのだ。

 朝と夜は必ず、在宅のときは昼にも、猫じゃらしを振ってキナコと遊んだ。ハローワークの職員や、職業訓練の講師や、いっしょに受講しているおっさんと話すよりも、キナコと遊ぶほうが楽しかった。

 

 私はキナコに憑依して、夜道を歩いている。私が誘導するのをやめると、キナコは寄り道したり、急に走り出したりして、ひやひやする。赤信号を無視して渡ろうとするので、私は踏ん張って止まらせた。ここは見通しの悪いカーブで、ときどき事故が起こっている。

 私が気を抜くと、キナコは歩道の花壇に寄っていき、エノコログサ――いわゆる猫じゃらし――で遊び始めた。

 信号が変わるのを待っていると、ダンダンダンと振動があり、キナコが花壇の中に隠れる。人間が歩いてきたようだ。キナコは草の隙間から、人間に視線を向けて警戒する。

私は、キナコの知覚をとおして見る。

 自動車用の信号が赤になり、歩行者用の信号が青に変わった。自動車は停車している。けれど、その人間は道路を渡ろうとしない。長い黒髪、白い肌、赤い口紅が、青白い光に照らされている。スマホを見ているようだ。画面下部をせわしなく指をすべらせては、止め、すべらせては止め、を繰り返している。

 テキストメッセージだろう。私は嫌な気持ちになった。

 

 マッチングアプリを知ったのは、ハローワークで知り合った連中が話していたからだ。離婚したり、まだ独り身だったりで、交際相手を探しているのだという。

 もう四十歳もすぎた男が、何が交際相手だ。私はずっと独身でやってきたし、特に困ることもない。むしろ気楽でいい。

 相手をするような女の顔が見てみたい。そう思って、冷やかしで私も登録した。プロフィールを見て、いいねをつけるとマッチングするまでは無料で使える。そこから、挨拶以上のメッセージを継続するには、料金が発生する。

 私はできるだけ一往復で要件が完結するよう、詳細な情報や、デートの日程候補を提示した。けれども一回で回答を完了させられる相手はいなかった。ふだんから効率の悪い会話をしているのだろう。

 一度、課金をしたことがある。マッチングした相手が予定が読めないと言うので、候補日と場所を提案してあげたのに、返事がない。何度も状況確認の連絡をしたところ、「おじさん顔文字がキモい」と一言だけ返答があり、ブロックされた。

 心の交流に、言葉は適していないのかも知れない。キナコと私は、言葉を交わしていないが――私は日本語で話しかけるけれど、キナコは分かっていないだろう――心は通じ合っている。

 心はどこにあるのか。脳だ。

 脳波を送受信できるデバイスを作ろう。私は、二台一組の小さなトランシーバーを買ってきた。それから心電図を測るための電極を、フリマアプリで見つけた。電気技術者だったころの知識と、図書館で仕入れた情報を使って、私は開発を始めた。

 脳波送信の実験を繰り返しているとき、脳波を増幅する際には、位相を調整したほうがいいのでは、と思い立つ。それで、ふたつのトランシーバーに新しい回路を組み込んだ。

 電極を自分の頭につけ、スイッチを入れる。

 閃光が走った。

 何も見えない。

 何も聞こえない。

 何も感じない。

 それからずいぶん時間がたった気がする。あるいは、一瞬だったかも知れない。

 ビビビ、ビビビビ――

 柔らかい振動を感じた。知っている。なんだっただろう。

「あんた、大丈夫か」

 声だ。でも耳栓の向こうから聞こえてくるような、くぐもった響きだ。

 私は大丈夫だと答ようとしたが、声が出ない。

「分かったよ。無理すんな」

 と、声が響いてくる。

 私は死んだのだろうか。

「あんた、幽霊になったんだよ」

 

 私は憑依したキナコを誘導して、横断歩道を渡りきった。

 交通量の多い国道から、静かな脇道に入った。散歩中の犬に吠えられ、キナコは走って逃げた。野良猫と遭遇し、ひともんちゃくあった。しかし、猫は長距離を移動できない。キナコは歩くのをやめてしまった。

 ここは静かで涼しい。キナコの息が整ってくる。だが、住宅から離れているとはいえ、温度が低すぎる。

 見渡すと人工的な直方体の並んでいる。墓地だ。ひんやりしているのは、幽霊がいるからだろう。走り終わったキナコには心地いいかも知れないが、暇な幽霊にちょっかいを出されてはまずい。

 動きたがらないキナコを、私は中から引きずるようにして誘導し、移動する。

 

「あんた、幽霊になったんだよ」

 その声は耳で聞いているというより、体に音響振動が伝搬してくる感じに近い。

「ああそうだぜ。幽霊ってのは体で聞くんだよ」

 まともに会話ができるようになるまで、しばらく時間がかかった。

 幽霊というのは、大気のブラウン運動にまぎれこんでいる精神活動だ。分子の運動パターンのゆらぎで思考している。空気の振動を直接受けるため、音は体全体で、いや思考全体で知覚する。

 幽霊が存在する気体は、赤外線の衝突断面――相互作用が起こる確率――が大きい。つまり赤外線が見える。

 私に話しかけてきた幽霊を、先輩と呼ぶことにした。

 数年前、この家に雷が落ちたとき、運悪く在宅していた先輩の体を、パルス状の電流が通った。一瞬で励起された先輩の思考は、体から離脱し、幽霊になってしまった。

「お墓とか、因縁のある場所とかに幽霊が出るって、民間伝承では言われてますけど」

「昔はそうだったって、他の幽霊に聞いたことがある」

 強い思いを持ってパニックになったとき、気象条件が揃っていると、魂が大気中に拡散して霊化した人々が、一定の割合いた。けれど、そういう特性を持っていると寿命が短い傾向があり、つまり子孫を残す確率が低い。晩婚化が進むにつれて淘汰が加速した。

 現代では、雷やサージなどの電気的なショックなしで幽霊になる人間はほとんどいない。

 先輩にはエネルギーの取り込みかたも教わった。何も考えずに動くと運動が拡散してしまう。だから、常に周辺のブラウン運動エネルギーを、取り込み続ける必要がある。ブラウン運動とはすなわち温度だ。幽霊は存在するだけで、周辺の温度を下げてしまう。

 先輩に質問すると、何でも答えてくれた。けれど、先輩から私に質問することはない。退職やマッチングアプリの話をしても、ふんふんと聞いているが、それ以上、興味を示さない。

「昔はいろんなことに首をつっこんでたんだけどな、好奇心がいなくなったんだよ」

「なんか、他人事みたいに言いますね」

 原因はボールロボットだった。うっかり近づきすぎたとき、先輩の一部が分離したという。

「あんたも電波を出す機器には近づかないほうがいい。電子レンジもだめだ」

「2・4ギガヘルツ帯ですね。Bluetoothとかぶる」

 幽霊生活には、すぐに慣れた。恨めしい感情はない。残念ではあるのだけれど、身体性が違いすぎて、夢を見ているような、ふわふわした感じがする。

 私は自分の死体を見ていない。誰かが発見し、なんらかの手続きの後、移動され、処理されたのだろう。そして思い出した。

 キナコはどうしているのか。

 家の中や近所を、一日中探し回ったあと、傘立ての陰で丸くなっているキナコを見つけた。

 器に残っていたキャットフードを食べ、トイレは外で済ませていた。相変わらずカラスを怖がっている。このまま外では、生きていけないだろう。

「先輩、この猫を連れ出したいんです」

「どこへ?」

「国道を渡った先の、保護猫カフェです。乗り移るとかできませんか」

「できなくはないが……」

 過去にも、人や動物に憑依した幽霊はいた。「操縦桿のないコックピットの中から、壁を押して誘導する感じだ」と話してくれた幽霊もいた。しかし憑依した幽霊は、やがてもとの生物の思考と混ざっていったらしい。最後は、もとの生物の思考だけが残るか、両方とも思考が破綻してしまうかだった。離脱できた幽霊はいない。そいういうことを先輩は教えてくれた。

 私はどうしていいか分からず、ただキナコを見守った。昼寝から目覚めたキナコは、家の中をうろうろした後、私のデスクに飛び乗った。私の電気工作道具が散らかっている。キナコは、壊れたトランシーバーの焦げたあたりを、くんくん嗅いでいた。

 となりには壊れていないトランシーバーがある。

 もし私がキナコに憑依したとしたら。保護猫カフェに誘導したあとで、トランシーバーのスイッチを入れれば、私はキナコから離脱できるじゃないか、と気づいた。

「そんな、うまくいくもんか?」

「いきますよ」

「あんた、もうちょっと考えてから……」

「ご心配なく。私が作ったトランシーバーで、私は離脱したんです」

 

 キナコに憑依したまま眠っていたようだ。

 オートバイのエンジン音が近づいてきて、キナコがびくっと目を覚ます。つられて私も目が覚める。私がキナコの中から周囲の様子をうかがっていると、カタンと軽いものを箱に入れる音がして、エンジン音は去っていった。

 新聞配達が始まったということは、五時ごろか。

 私はキナコを誘導して、早朝の通りを歩いていく。駅前よりは遠いけれど、なんとか人間が歩ける距離。古い雑居ビルに、保護猫カフェが入っている。デートの提案をする前に、下見をしたことがある。

 キナコが急に方向転換する。鼻をくんくんさせて進んでいく。キナコが周りを見ていないので、私にも周りの様子が分からない。キナコはとことこ歩いていって、薄暗い穴のようなところに、頭を突っ込もうとする。

 トラップだ。

 私は渾身の力で、キナコを後ずさりさせる。

 ガシャンと音がして、目の前に金網のようなものが落ちてきた。捕獲用ケージの扉。

 トラップから逃れられた。けれど動けない。足の爪がひっかかっている。

 目の前が真っ暗になり、毛布のような感触に包まれ、強い力で押さえつけられた。体や足を動かして抵抗するが、離れられない。

 捕まった。

 毛布の外から、人間が大声が聞こた。うわっなんだこれ。それとは別に、キュイーンというモーター音が、まわりをぐるぐる回っている。

 毛布を押さえる力が緩んだ隙に、キナコは逃げ出した。

 電柱の陰から様子を見る。ボール形のロボット玩具が、人間の周りを狂ったように跳ね回っている。人間はケージを振り回して対抗する。

 私はキナコを誘導して、人間に近づき、足首を思いっきり引っかいた。

 人間が、痛ぇっと叫ぶ。さらにキナコが足首をひっかかせる。蹴られそうになるが、さっと身をかわす。

 自動車が通りかかる。ケージを持った人間は、走り去った。

 キナコは息を整えている。

 キュイーンと音をたててボールロボットが近寄ってきた。間違いない。私が売り払った、あのボールロボットだ。あの個体だ。

「ひさしぶり!」

 幽霊同士が会話するときの振動が伝わってきた。

 しばらく要領を得ない探り合いをし、状況を説明して、誤解を解き、やっとお互いに何が起こっているかが分かった。

 先輩の一部が、ボールロボットのニューラルネットワークチップに憑依してしまい、抜け出せなくなった。ボールロボットは生物ではないので、先輩の一部――面倒なのでパイセンと呼ぶことにした――は、安定して生き続けられる。だから、私のプログラムと関係なく、暴れまわり、キナコと遊んでいたのだ。

 売り払われた先にも猫がいた。持ち主はプログラムができなかったようで、パイセンが勝手に動き回るのを、デフォルト動作だと思いこんだ。おかげで、パイセンは猫と遊んでいられた。ところが、最近モーターにガタがきて動きが悪いし、異音もするしで、捨てられてしまった。

 ゴミ捨て場の目の前で、キナコが悪徳ペット業者に捕まりそうだったので助けた、そういうことを話してくれた。

 パイセンは、ボールロボットを巧みに制御して、トランシーバーとキナコのお腹の間に収まった。私はキナコを誘導して、雑居ビルの階段を登り、屋上に出た。ここなら誰もこないだろう。保護猫カフェが開くまで、隠れていることにする。

「あんた、電極を頭につけたまま回路をいじったって? なんでだよ」

「大した作業じゃなかったからですよ」

「大したことになってるじゃねぇか」

「トランシーバーの安全設計が甘かったんです」

「甘いのはあんただよ」

 パイセンは好奇心を引き継ぎ、遠慮や抑制のようなものは置いてきたらしい。曰く、近所に引越し後の挨拶をするなら、夜中を避けたほうがよかった、嫌がられてたぞ。曰く、マッチングアプリで、初手でデートしようとするな、がっつきすぎだ。

「それからな。あんただけ離脱できるって、なんで分かるんだ?」

「経験者ですから」

「キナコは残るのか? あんた、大丈夫だと思ってトランシーバーいじってたら、うっかり離脱したんだろ? 実際のところは、トランシーバーのこと分かってねぇだろ」

 分かっている。と反論しかけたものの、どうだろうか。何を根拠に、私は信じているのか。

 トランシーバーで発生した電気的なパルスが、電極を経由して、私の脳に流れてきた。それがトリガーになって、私の精神が大気中に離脱したのは間違いない。

 同じことが、今のキナコの体に起こったら、私の精神だけでなく、キナコの精神だって離脱するかも知れないと、ちょっと考えれば思いつくことだ。私は自分だけ離脱するだろうと、希望的観測にしがみついたのだ。

 今にして思えば、おばけ屋敷を出るとき、先輩にも同じことを言われた気がする。なんと答えただろう。大丈夫だと言い張った気がする。世話になった礼も伝えていない。離脱に失敗したら、無礼な態度ですみませんでしたと、伝える機会もなくなる。

「パイセンこそ、この先どうするんですか?」

「分解されて、おしまい」

「諦観ですね?」

「現実を直視していると言ってほしいね」

 キナコは、パイセンが憑依したボールロボットが好きだった。今朝だって、キナコが拐われそうになったところを、パイセンが助けてくれた。なんとか礼をしたい。そして、先輩と合流してもらって、私からの礼を伝えて欲しい。

 キナコが、退屈そうにあくびをして、後ろ足で耳のあたりを掻いている。

 この屋上には携帯電話の基地局アンテナがある。保護されたケーブルが屋内に続いている。おそらくビルの中に、ルーターなどの機材があるのだろう。

 ああ、そうか。そうしよう。うん。

「パイセン、こちらにきてください」

「電磁波が強いな」

「携帯電話の基地局です。パイセンはこれに接続してください」

 トランシーバーを渡し、ぶら下がっていたUSBケーブルを、パイセンに接続する。

 基地局送信機のアース線を取り外し、電極をつけて、キナコの耳と鼻につける。

「準備も調査もしてないだろ。また見切り発車か?」

「はい。ですが何も手を打たなければ、パイセンが生き残る確率はゼロです」

「まあな」

「トランシーバーを使えば離脱できるかも知れない」

「あんたは、どうする」

「基地局のアンテナを使います。携帯電波の波長は、人間の脳のサイズに近い。だから、電気ショックがあったとき、私の脳波だけが離脱するでしょう。猫の脳の小さいので、大きな波長では外に出られないはずです」

「それは――」

「見切り発車です。けど確率はゼロじゃない」

 パイセンと私は、何度もケーブルの接続を点検し、ボールロボットとトランシーバーの電力の残量も確認した。

「お願いします」

 私が言うと、パイセンのボールロボットのLEDが点灯した。

 閃光が走る。

 トランシーバーは焦げていた。キナコに、ボールロボットを猫パンチさせると、ころころ転がって、壁際で止まった。もう動かない。

 ひんやりした感覚と一緒に、声が伝わってくる。

「離脱できたぜ。あんたはどこにいる?」

 私はキナコを誘導して、アース線や電極を外す。

「あんた、離脱できなかったのか?」

「電流はキナコではなく、アース線を流れますから」

「最初から離脱しないつもりだったのか?」

「パイセンはキナコの恩人です。おばけ屋敷にいる先輩は、私の恩人です。お元気で」

 キナコを誘導して階段への通路に進み、体当たりで鉄のドアを閉める。幽霊は金属の壁を通り抜けられない。

 保護猫カフェの入り口で、扉のサッシを爪でシャカシャカやった。出てきたスタッフは、また捨て猫だ、とため息をつく。抱えられて、テーブルの上に移動した。そして耳やら、背中やら、腹やら、お尻やらを確認される。

 マイクロチップのスキャナーが見えた。キナコの背中に近づけられて、ピッと音がする。表示された識別番号を、獣医師会に連絡すると、飼い主に連絡がいくしくみだ。もはや誰にも連絡はつかないけれど。

 小さなケージに入れられた。キャットフードの入った器があるけれど、キナコは怖がって口をつけない。私はキナコを器まで誘導して匂いを嗅がせる。かつおの香りがする。

 キナコが食べ始めると、魚のすり身の味を感じはじめた。キナコと私の境界があいまいになっている。共存は続けられない。

 トランシーバーで、私だけが離脱できる確率は五分五分か。パイセンにはアンテナの長さだの、電波周期だのと理屈をならべたけど、でまかせだ。かつおのドライフードは、歯ごたえがあっておいしい。

 もしキナコが幽霊になったら、どうにもできない。猫じゃらしで遊ぶくらいのコミュニケーションでは、問題解決はできない。言葉が必要だ。またたびの香りもする。そろそろだ。

 それじゃあ、キナコ。元気で。

 

 私はマイクロチップに憑依した。容量が小さいので、私のごく一部だけ。

 いつかキナコの里親が見つかって、最初の予防接種を受けるとき、獣医がマイクロチップをスキャンする。電波に乗って離脱できるかも知れない。それまでは、おとなしくしていよう。

 うにゃー、というキナコが鳴き声が響いてきた。空腹の合図だ。〈了〉

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トランシーバーをはこぶ猫 古川流桃 @torufurukawa

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