第3話 静かな決意

◇◇◇ 若水わかみず 限也げんやの視点 ◇◇◇


 朝日が窓ガラスを通して店内に差し込み、カウンターに並ぶカップを淡い光で照らしていた。営業開始まであと三十分。私は窓辺の一輪挿しから、昨日挿したソメイヨシノの枝を取り出す。代わりに用意しておいた八重桜の小枝を活ける。淡いピンク色の花が、これから始まる一日に相応しい柔らかな印象を添えた。


 グラインダーのスイッチを入れる。豆を挽く音が静かな店内に響く。今日はいつもより丁寧に豆を選んだ。この後の打ち合わせで使うつもりだ。銀平ぎんぺいさんが遺した営業ノートには『接客に迷ったら、まずはコーヒーを』と記されている。叔父は四十年以上、この言葉を守り続けたのだろう。


 カウンターに置いた電話が鳴る。


「はい、アカシアでございます」


「おはようございます。白館しらたてです」


 凛とした声が返ってきた。


「昨日ご相談いただいた津田さんの件ですが、14時からで変更ないでしょうか」


「ええ、津田様から変更のご連絡はいただいておりません。込み入ったお話になると思われますので、個室を確保してございます」


「ありがとうございます!それで、昨日ご連絡いただいた際にお伝えし忘れてしまったのですが、ご依頼いただくにあたって身分証明書のコピーを取らせていただきたいのです。ご本人様にお伝えいただけますか」


 メモを取りながら頷く。


「承知いたしました。津田様にご連絡させていただきます」


 電話を置くと、すぐに個室の準備にとりかかった。カーテンの埃を払い、テーブルを念入りに拭く。普段は六人掛けのテーブルだが、今日は二人分のセッティングだ。今日は津田様以外への貸出予定はない上、個室利用を希望されるお客様は滅多にいらっしゃらないので、先に準備しておいて手間が増えるわけでもない。お互いの位置関係にも気を配る。依頼人となる津田様が落ち着ける配置を考えながら、椅子の角度を微調整した。


 カウンターに戻ると、再び電話が鳴った。津田様から訪問時間の確認の電話だった。十五分前には到着予定だが問題ないか、という問い合わせだったので、問題ない旨を返答する。合わせて、先ほど白館様から依頼された身分証明書のコピーについて了解を得る。


 電話を切り、壁時計を見上げる。十一時の開店まで、あと十五分。今日もまた、アカシアの一日が始まろうとしていた。


◇◇◇


 時計が十四時を指す少し前、白館様が姿を見せた。店内に他のお客様はいらっしゃらなかったので、ドアにかけている札を『閉店中』に切り替える。そして、白館を個室に案内すると、先に来店して着席していた津田様が緊張した面持ちで立ち上がる。スーツ姿の白館様は、年齢以上の落ち着きを纏っていた。


「ご紹介させていただきます。白館 香奈美かなみ様です。《白館調査事務所》の代表を務めておられます」


 私の紹介に、白館は軽く頭を下げた。


「本日は津田様からのご依頼に向け、面談をさせていただきたく参りました」


 白館様がスーツの内ポケットから名刺入れを取り出し、津田様に差し出す。


「よ、よろしくお願いします」


 気圧されたような津田様が名刺を受け取るのを横目に、私はグラスに水を注ぎ、白館様が座られる席に置く。


「いつものでよろしゅうございますか」


「はい、お願いします」


 そんなやりとりを経て、私は一度個室を退室する。カウンターに戻ると、挽いていたコーヒー豆をエスプレッソマシンに詰め、抽出しはじめる。当店で打ち合わせをするときの白館様は、いつもカフェラテを頼まれるのだ。


 エスプレッソコーヒーを入れたマグカップにミルクピッチャーからスチームミルクを注いでいく。最後はリーフ模様のラテアートを描いて完成。それから、サイフォンで淹れていたコーヒーをポットに移す。そして、それらをお盆に載せて個室へと戻る。


 個室に戻ったときには、二人の間でのアイスブレイクは終わったのだろう。二人の邪魔にならないよう、そっとカフェラテを置き、津田様のマグカップに追加のコーヒーを注ぐ。コーヒーの香りが漂い、わずかに室内の緊張が解けたようだ。


「それでは、具体的なお話を」


 白館様がバッグからノートを取り出した。


「まずは奥様の行動で気になる点を、詳しくお聞かせいただけますでしょうか」


 津田様が話される前に退室しようとしたが、その津田様に呼び止められる。


「よければ、若水さんも聞いてもらえませんか。こんなこと、他の人には話せないもので」


 津田様の気持ちは、痛いほどよくわかる。こういった話は、家族や友人にほどできないものなのだから。


「ええ、かしこまりました」


 私は了承を伝えると、端に寄せていた椅子をテーブルに近づけて座らせていただく。津田様は、私が座ったのを見ると一度深く息を吸い、話し始めた。先日、私に話したことが整理されている。奥様が退職された後の生活パターン、スマートフォンの扱い方の変化や土日問わず外出が増えたこと。白館様は、時折うなずきながら、手際よくメモを取っている。


「親友の方からご連絡のあった保育園での目撃情報ですが、それ以降も何か情報が寄せられているのでしょうか」


「ええ、その……」


 津田様は言い淀んでいたが、おもむろにマグカップを手に持つと一気に飲み干した。そして、意を決したように口を開く。


「実は、保育園で妻を見た親友が、別の日に妻と子どもが見知らぬ男性と三人で歩いている場面を目撃しています。思いもよらぬ場面に遭遇したため、親友も写真を撮ることはできなかったそうでして。場所は、隣町のショッピングモールだそうです」


 白館様の表情が僅かに引き締まる。


「なるほど。ありがとうございます。では、調査の手法について具体的にご説明させていただきます」


 彼女は手元の書類を整理し、調査の全容を説明し始めた。奥様の追跡や張り込み、必要に応じて SNS の分析まで。すべてが法に触れない範囲で、かつ徹底的な内容だった。支払いについては、分割払いにも応じる旨を付け加える。


「調査期間は2週間が目安となります。ですが、早い段階で決定的な証拠を押さえることができた場合はその時点でご報告させていただきます。しかし、状況によっては調査期間を延長させていただくこともあり得ます」


 白館様の言葉に、津田様が静かにうなずいた。先ほどまでの迷いは消え、凛とした表情に変わっている。津田様は、いくつかの不明点を確認し、納得したのだろう。契約すると意思を示された。白館様が用意してきた契約書に署名するペンの音が、決意を刻むように響いた。


 私は音もなくマグカップを下げながら、署名を終えた津田様の横顔に、これから始まる苦しい日々を予感していた。


 面談を終えて契約をした津田様を見送ったあと、私はドアの札を『開店中』に変更した。先ほど使った道具類を洗い、今後のお客様に備えて準備をしていく。夕暮れが迫る店内で、白館様が個室から出ていらした。夜の営業に切り替わる直前の時間帯。窓から差し込む柔らかな光が、彼女の凛とした横顔を照らしている。


「若水さん、少しお話してもよろしいでしょうか」


 私は無言でうなずき、新しいカフェラテを入れるため、エスプレッソコーヒーの抽出を始めた。


「津田さんとの連絡は、基本的に私からの直接連絡とさせていただきます。ただ、ご本人の希望で、対面での報告はこちらのお店でさせていただきたいとのことで」


「ええ、存じ上げております。その際は、こちらにもご一報いただけましたら、個室を予約させていただきますので」


 エスプレッソマシンからの香りに、張り詰めた空気が少しずつ和らいでいく。


 白館様は手帳を取り出しながら、静かに言葉を続けた。


「こういった調査のときはいろいろ考えちゃいますね。何もないことを証明するのは難しいですから」


 私は無意識に左手の薬指に触れていた。彼女の言葉に、避けたい記憶が蘇る。


 言葉の代わりに、私はカフェラテを差し出した。


「ありがとうございます。あ、個室の利用料は、月末精算でお願いします。何件かお問い合わせをいただいているんですが、面談の際に事務所への出入りを見られたくないという方が何人かいらっしゃいまして」


 彼女の言葉に、私も個室の予約台帳を取り出す。そして、いくつかの希望日時を伺い、個室の予約を記録していった。


「若水さんは大変かもですが、あたしとしては若水さんが個室のある喫茶店を継いでくれて助かっています。事務所の出入りを見られたくないという方との面談を喫茶店やファミレスでやっていたんですが、いつどこで対象者やその関係者に見られるかわからないですからね。本当に、ありがとうございます」


 白館様が深々と頭を下げたタイミングで、店内の BGM が自動的に切り替わる。夜営業の時間だ。白館様は、残っていたカフェラテを飲み干すと、バッグを手に取りながら「調査は明日から開始します」と告げた。その声には、これまでの経験に裏打ちされた確かな自信が感じられた。


◇◇◇


 本日の営業終了まであと一時間といったところ。お客様の姿がなく静まり返った店内に、急いだ足音が響いた。


「津田様?」


 カウンター越しに見える彼の顔は、白館様と素行調査の契約をしたときの凛とした表情を失っていた。両手で握りしめたスマートフォンが、微かに震えている。


「すみません、こんな時間に」


 私は黙ってグラスに氷を入れ、水を注いだ。落ち着くまで待とう。夜の街の喧騒が遠くに流れる中、氷の軋む音だけが静かに響く。


「実は、あのあとどうしても気になって、妻の SNS をもう一度見直してみたんです」


 津田様は深く息を吸い、続けた。


「今まで見てこなかった過去の投稿まで、全部チェックしてみようと」


「何か心当たりがあったのでしょうか」


「いえ、むしろ何かを見落としているんじゃないかって。だからこんなことになってしまったのかもしれないんですが」


 彼は水に手を伸ばすが、すぐには飲まない。


「そしたら、二年前の投稿で見つけたんです」


 スマートフォンの画面が私の方に向けられた。そこには津田様の奥様である美沙子様の投稿らしき文章が表示されている。


『今日で一周忌。あなたの分まで、精一杯生きていきます。安らかに、お眠りください』


「この投稿、非公開設定だったんです。でも、妻のスマートフォンのロック解除ができて……」


 言葉を濁す津田様に、そっと頷く。夫婦間とはいえ、モラルの境界線は難しい。けれど今は、それを責める時ではないだろう。


「こちらの投稿に気になる点があるのですね」


「ええ。妻は普段、こんな風に書かないんです。それに、投稿時期が結婚した直後で」


 津田様の声が僅かに震えた。


「それと、もう一つ」


 グラスの氷が溶けていく。静寂が二人の間に広がる。


「あの追悼メッセージ、山下 俊介という男の亡くなった奥さんに向けたものなんです」

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その不倫に覚悟はありますか? カユウ @kayuu

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