第2話 違和感の正体
◇◇◇ 津田 浩次の視点 ◇◇◇
朝六時。目覚ましが鳴る前に目が覚めた。隣のベッドで寝息を立てる美沙子の横顔を見つめる。最近はこちらに背中を向けて寝ていることが多くなった妻が、久しぶりにこちらを向いて眠っている。
まつ毛が長いな、と思う。そう思うのは、何度目だろうか。化粧っけのない素顔は、社内研修で出会った頃と変わらない。そう思った矢先、美沙子のスマートフォンが小さく震えた。LINEの通知音だ。
思わず手が伸びそうになって、自分で自分を制する。いくら妻とはいえ、他人のプライバシーを覗き見るような真似は、したくなかった。企業などの公式 LINE の通知だろうと思い込む。けれど、個人からのメッセージだとしたら、この時間に誰からのメッセージなのだろう、という疑問が胸の奥で渦を巻く。
朝六時半。いつもの時間に起き出す。美沙子を起こさないよう静かにベッドから抜け出し、シャワーを浴びて、コーヒーを淹れる。結婚してすぐ、美沙子がプレゼントと言って買ってくれたコーヒーメーカーだ。豆から淹れる本格的なやつで、最初は使い方に戸惑ったことを思い出す。
「おはよう」
背後から美沙子の声。振り返ると、スマートフォンを手に持っていた。
「ああ、おはよう。コーヒー、いる?」
コーヒーメーカーの抽出完了の音に、美沙子に背を向けながら声をかける。
「……うん……ありがとう」
美沙子の返事が、少し遅れた気がした。画面を見ていたのだろうか。
「今日は何か予定あるの?」
トースターに食パンを入れながら、何気なく尋ねる。
「え? ああ、午後から友達と買い物に行くかも」
また”かも”。最近の美沙子の口癖だ。どこか曖昧で、確定を避けているような言い方。だが、そういう言葉を言うときは、帰りが遅くなる。
「へえ、誰だろ?知っている人?」
「うーん、どうだろ。保育園時代からの友達なの。久しぶりに会うんだ」
コーヒーカップを持つ美沙子の指先が、僅かに震えているような気がした。気のせいだろうか。
「そっか。楽しんでおいで」
返事をする自分の声が、どこか空々しく響く。結婚して二年。同じテーブルで朝食を取りながらも、二人の間に見えない壁が少しずつ積み上がっていくような感覚に襲われた。
美沙子は急いで朝食を済ませると、化粧をするために洗面所に消えていった。残されたコーヒーカップには、半分ほど飲み残しがある。最近、よく飲み残すようになった。かつては「もったいない」と必ず飲み干していたのに。
小さな変化の一つ一つが、少しずつ私の心を掻き乱していく。
洗面所から化粧の音が聞こえてくる。ここ最近、お決まりとなった朝の風景に、二年前の春を思い出していた。
あの日も、こんな風に桜が咲いていた。
新入社員研修の担当を任されたのは、入社六年目のことだった。課長から指名された時は正直、重荷だと感じた。しかし、研修で出会った新入社員たちは、予想以上に素直で意欲的な面々だった。
その中でも、白波 美沙子は際立っていた。
「新入社員の白波です。大学の研究テーマはデータ分析を使うものでした。よろしくお願いします」
彼女の自己紹介は簡潔で、必要な情報が過不足なく伝わってくる。
新入社員研修は順調に進んでいた。美沙子は質問も的確で、グループワークでもリーダーシップを発揮する。私の説明にも真摯に耳を傾け、時には鋭い指摘をしてくる。
変化は、研修も後半に差し掛かった頃から始まった。
「津田さん、これ、お礼です」
ある日、美沙子が差し出してきたのは、手作りのクッキーだった。
「研修で親切にしていただいて。皆にも配ったんですけど」
差し出された紙袋には、確かに『研修メンバーの皆様へ』と書かれている。自然な形でのアプローチ。今思えば、そこにも彼女の計算の正確さが表れていた。
それからだった。休憩時間に話しかけてくる頻度が増え、何気ない会話の中で自分の趣味や好みを織り交ぜてくる。共通点を見つけては話を広げ、違いを見つけては興味を示す。
「津田さんって、お料理するんですね」
「ええ、まあ。一人暮らしだと覚えざるを得なくて」
「私も料理、好きなんです。でも、一人分だけ作るのって難しいですよね」
今思えば、あの頃から彼女の一挙手一投足には計算が働いていた。しかし当時は、彼女の自然な振る舞いに、徐々に心を奪われていった。
研修が終わっても、美沙子は巧みに接点を作り出した。
「データの扱いで分からないことがあって……教えていただけませんか?」
「新人歓迎会の幹事なんですけど、アドバイスいただけますか?」
次第に、周囲も私たちの関係に気づき始めた。
「津田。お前、白波さんのこと、どう思ってるんだ?」
同期に尋ねられた時、私は誤魔化すことができなかった。
「……そりゃ気にならないって言ったら嘘になる」
「だよなぁ。でも、あいつ、モテるぞ。ちょい下のやつらも何人か狙ってるらしい。早めに決断した方がいいんじゃないか?」
その言葉に背中を押され、私は美沙子を食事に誘った。
「実は、ずっとお誘いするタイミングを見計らっていたんです」
告白のタイミングも、彼女の方が上手かった。デートを重ねること三回目、隅田川の土手で夜景を見ながら、美沙子が切り出した。
「私、津田さんのこと……好きになりました」
月明かりに照らされた横顔が、今でも鮮明に思い出せる。
一年半の交際を経て、プロポーズ。両親への挨拶。そして結婚式。全てが、スムーズに運んだ。
美沙子らしい段取りの良さだった。だが、段取りが良すぎるといえば、良すぎるようにも思えてくる。
洗面所からドライヤーの音が聞こえてくる。今朝見た寝顔は、あの頃と変わらなかった。でも、どこか違うような気がする。計算通りだった、というのは、意地の悪い見方だろうか。
コーヒーカップを片付けながら、そんな思いが頭をよぎった。
◇◇◇
通勤途中の電車の中で、半年前の会話を思い出していた。
「私ね、仕事を辞めようと思うの」
休日の朝食時、美沙子が唐突に切り出した。
「え? どうして急に」
「急じゃないよ。ちゃんと考えたの」
食パンを半分に切りながら、美沙子は理由を並べ始めた。子作りに専念したい。家のことにもっと時間を使いたい。二人のために生活したい。だが、今の仕事はストレスが溜まるので、二人のために生活をする気持ちに切り替えるのに時間がかかる。
「でも、美沙子は仕事が好きだって……」
そのとき思い出していたのは、ある企業のデータ分析を担当することになって大喜びしていた美沙子。担当が決まった日の夜、二人で一緒に祝杯をあげたのを覚えている。その時の美沙子は、データ分析の仕事がしたくて今の会社を志望したんだって目をキラキラさせて言っていた。
「うん。でも、今は家庭のことを考えたいの」
窓の外では新緑が揺れていた。その日の美沙子は、いつになく饒舌だった。まるで、準備してきた台詞を読み上げるように。
「それに、あなたの収入だけでも生活はできるし。子どもが生まれて落ち着いたら、仕事に復帰することも考えているから」
確かにそうだった。先に働き始めたということもあるが、年収ベースで私のほうが収入が多い。それに夫婦での貯金口座にもそれなりの金額が貯まっている。私よりも美沙子のほうが外食や趣味に使う金額は多いが、本人の言うとおり仕事のストレスがなくなれば変わるかもしれない。
「分かった。美沙子がそう決めたなら」
その時の私は、妻の決断を素直に受け入れた。仕事をし続けることにこだわる必要はない。私が働き続ければいいのだから。美紗子の家庭を大切にしたいという気持ちは、むしろ嬉しかった。
しかし、退職を切り出す前から変化は既に始まっていたのかもしれない。
退職の手続きを進める中で、美沙子の様子は少しずつ変わっていった。まず、スマートフォンの使い方が変わった。食事中でも頻繁に画面を確認し、LINEの通知音が鳴るたびに急いで手に取っている。
あまりにも急いで確認しているので、何か問題があったのかと思って、「大丈夫?」と尋ねていた。だが「大学の友人」「高校の同窓会グループ」「親戚の人」などなど、返事は毎回違った。
休日の外出も増えた。
「久しぶりに会う友達がいるの」
「結婚に悩んでいる友達とランチする。結婚した人の話が聞きたいんだって」
「高校の同窓会」
理由は様々だが、どれも確認のしようがない。帰宅時間も徐々に遅くなっていった。そのたびに、「電車が遅れて」「話が弾んで」という言い訳が続いていたが、最近は特に言い訳も口の端に上らない。
そして決定的だったのは、パスワードの変更だ。
結婚してからずっと、私たちは互いのスマートフォンのパスワードを知っていた。緊急時のため、という名目だった。しかし先月、美沙子は唐突にパスワードを変更した。
「あたしが退職したんだから、緊急時もなにもないでしょ。今時、プライバシーを大切にしないとね。あなたもパスワード変えていいから」
そうして、新しいパスワードは教えてくれなかった。
外出時の身なりも変わった。いつの間にか新しい服が増えている。私が見える範囲でではあるが、化粧品が変わった。私といるときには使ったことのない香水、いくつもある。何より、外出時の化粧が念入りになった。
以前の美沙子は、休日は素顔で過ごすことも多かった。「家で完璧にする必要はないでしょ」と笑っていたのに。
先週の日曜日。珍しく二人で買い物に出かけた時のことだ。
「あ、ごめん。ちょっとトイレ」
私がトイレに行って美紗子のもとに戻ったとき。ベンチに座る美沙子は、画面に見入っている。声をかけようとした瞬間、メッセージが届いたのだろう。ここ最近見たことのなかった美紗子の微笑みに、私は声をかけることができなかった。
会社の最寄り駅に着き、他の人と一緒に電車から吐き出されながら、今まで目を背けてきた理由を考えていた。だが、その答えは簡単だ。
美沙子を信じたかったから。
電車が駅に滑り込む。通勤ラッシュの車内で、私は静かにため息をつく。先日の喫茶店。マスターである
◇◇◇
昼休憩、会社の屋上で買ってきた弁当を広げた時だった。
LINEの通知音が鳴る。差出人は木村だ。大学からの親友で、今は息子を保育園に通わせながら、別の会社でシステムエンジニアとして働いている。
『お前の奥さん、見かけたんだけどさ。子ども産まれたんだったら教えろよ。』
箸が止まる。
『今日、うちの奥さんがどうしても外せない用があって、代わりに息子の保育園に迎えに行ったんだよ。そしたら、たまたまお前の奥さん見かけたんだよね。』
続けて木村からのメッセージが届く。
『そういや保育士さんが呼んでた苗字、津田じゃなかったんだけど、いつの間に奥さんのほうの苗字に変えたんだよ?』
スマートフォンの画面が揺れる。いや、自分の手が震えているのか。
返信を打つ指が震えている。
『どんな様子だった?』
送信して、すぐに後悔した。本当に知りたいのか? でも、もう引き返せない。
『ん?楽しそうだったよ。こっちが一足先に駐車場に行って準備してたら、二人で手を繋いで歩いてたし』
画面の文字が、刃物のように胸を抉る。
『なんだ?夫婦喧嘩か?』
木村からのメッセージが続いた。
目を閉じる。先週の買い物。トイレから戻ってきたときに見た美沙子の微笑みが、まぶたの裏に浮かぶ。
『いや、そういうわけじゃないよ。いないときの様子が気になっただけでさ。教えてくれてありがとう』
それだけ返して、画面を消した。
弁当を片付けながら、昨日訪れた喫茶店のことを思い出す。若水さんの「確かな事実を、慎重に見極めていくことが肝要かと」という言葉が、今なら痛いほど分かる。
事実。それは美沙子が隠していた”保育園”という場所で、明らかになろうとしていた。
携帯の写真フォルダを開く。結婚式の写真。新婚旅行の写真。幸せそうな二人の笑顔が並ぶ。その隣には、昨日見つけた小さな喫茶店の写真。窓辺に置かれた『不倫相談承ります』の札を、念のために撮っておいたものだ。
「若水さん……」
名前を呟きながら、仕事帰りにもう一度寄ってみようと決めた。今度は、全てを話そう。木村が見た光景も、自分の中の違和感も、そして……この痛みも。
屋上の手すりに寄りかかり、昼下がりの空を見上げる。雲の切れ間から差し込む陽の光が、まぶしかった。
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