第4章 津田 浩次の場合

第1話 不倫相談承ります

◇◇◇ 若水 限也の視点 ◇◇◇


 桜が満開を迎えつつあった四月のある朝、いつもの時間に店の準備を始める。開店まであと一時間。窓から差し込む朝日に透かして、グラスの一つ一つをチェックしていく。


 曇りや水垢がないか。きちんと乾いているか。チェックを終えたグラスが、朝日に輝いて店内にほのかな虹を映す。そんな瞬間が、私は好きだ。


「さてと、おはようございます、銀平ぎんぺいさん」


 カウンターの隅に置かれた遺影に声をかける。開店から四十八年。病に倒れて入院するまで、この店に立ち続けた大叔父の若水わかみず 銀平だ。彼の闘病期間中は店を閉めていた。闘病の甲斐なく亡くなってしまったそうなのだが、遺産相続で揉めたのだ。具体的には、このお店をどうするかという一点において、誰も引き受けなかったのだ。その結果、父の鶴の一声により、私が暇だろうからという理由で《喫茶アカシア》を継ぐことになったのだ。


 お店を再開してからすぐは、ほとんどお客様もいらっしゃらなかった。業態をカフェ&バーに変えたが、店名はそのままにしていたことで、銀平さんが店主だったときの常連客が来店。銀平さんに劣らない美味しいコーヒーを出すとして話が広まり、客足が増えた。私が継ぐ前からの常連客が懐かしむので、父に無理を言って銀平さんの遺影を縮小コピーさせていただき、カウンターの隅に置かせてもらっているというわけだ。毎日写真を見ているせいか、話したこともないのに親近感が湧いているのだ。我ながら単純だなと思ってしまう。


 毎朝の日課を終えた私は、窓辺の一輪挿しに、新しい桜の枝を活ける。昨日までのものは、まだ十分な状態だったが、銀平さんが書き残した営業ノートの最初に書かれた文言を意識して交換することにした。


『お客様には一番いい状態でお見せすること』


 父の無茶振りとも言えるような言葉をきっかけに、それまで開いていた不倫相談所をたたみ、このお店を継ぐことにした。懇意にしている滝山弁護士には、お店を継ぐ人がいないと言われたから引き受けたと言ったが、実は他にも理由がある。これまで不倫相談に訪れた人たちとの関わりを経て、人とのつながりを感じられる空間、人の温もりがある空間が必要だと感じたのだ。それが、辛い気持ちのある人をつなぎとめ、道を踏み外しそうな人を支えると信じているから。


 最後のチェックを終え、小さな立て札を窓際に置く。以前はカウンターの端に置いていた立て札だが、いく人かの相談者や常連客の意見を踏まえて窓際に置くことにした。


『不倫相談承ります』


 控えめな文字で書かれたその札を見つめながら、婚約破棄された日のことを思い出す。あの時、誰かに相談する場所があれば、もう少し違う結末があったのかもしれない。


 午前十一時。定刻通りに店を開ける。チャイムの音が、新しい一日の始まりを告げた。


◇◇◇


 昼過ぎになると、いつもの常連たちが訪れ始めた。


 ドアの開くチャイムの音と共に聞こえる「いつもの」という声に振り返ると、本を抱えた年配の女性が入ってくる。市川先生だ。元高校教師で、毎週火曜日の昼下がりに、必ずミルクティーを注文する。


「市川先生、今日はどんな本をお持ちになられたんですか」


「ああ、若水さん。今日は推理小説よ。最近の作家さんはね、人間関係の機微を本当に上手く描くのよ」


 お気に入りの窓際の席に案内しながら、市川先生の本棚の話に耳を傾ける。日差しが差し込む店内に、穏やかな時間が流れていく。


「あら、渡辺さんもいらしたのね」


 市川先生が目を細める。奥のテーブル席では、渡辺様が週刊誌を広げていた。定年後、毎日散歩がてら立ち寄ってくださる常連だ。お店が閉まっていたときは、どこにも寄らずまっすぐ家に帰っていたらしい。今日も柔らかなサンドイッチを少しずつ、丁寧に口に運んでいる。


「この時間が好きなんです」


 不意に渡辺様が呟いた。


「人も程よく、日差しも心地よくて。銀平さんの頃から、この席で過ごすのが日課でね」


 コーヒーを淹れ直しながら、私は微笑む。大叔父の時代からの常連客たちは、今でも銀平さんの思い出を語ってくれる。そのたびに、この店を継いで良かったと思う。


 チャイムが鳴り、また新しい客が入ってきた。すっと背筋の伸びた姿に見覚えがある。


「滝山様」


「やあ、若水。久しぶりだ」


 滝山 清志郎様だ。不倫相談所のときから懇意にさせていただいている弁護士で、奇しくも私と同い年だという。特に離婚関係に強く、数多くの依頼を抱える敏腕弁護士である。そんな彼だが、スーツ姿はきっちりとしているが、少し肩の力が抜けている。依頼のとき以外も、裁判や打ち合わせなどの合間の息抜きに、時々立ち寄ってくれる。


「今日はブレンド、濃いめで」


「承知いたしました」


 注文を受けながら、滝山様の表情に疲れが見えることに気づく。難しい案件を抱えているのだろう。


「最近、案件が増えてね」


 コーヒーを受け取りながら、滝山様が静かな声で話し始めた。


「SNSの発達で、証拠は簡単に集まる。でも、その分、修復は難しくなっている。痕跡が残りすぎるんだ」


「ええ、私も気になっておりました」


 窓際の立て札を見やりながら答える。


「その上、技術の進歩が早すぎる。誰でも簡単に合成写真を作れる現状は、ボクたち司法関係者には好ましくないものだ。提示された証拠が合成写真かどうかを簡単に判別できるツールがほしいね」


 滝山様は小さくため息をついた。


 店内には、コーヒーの香りと穏やかな会話が漂う。市川先生は本に没頭し、渡辺様は窓の外を眺めている。滝山様は静かにコーヒーを飲みながら、分厚い書籍に目を通している。


 そんな平穏な午後のひとときが、来るべき出会いの前の静けさだったとは、その時はまだ知る由もなかった。


◇◇◇


「いらっしゃいませ」


 午後三時過ぎ、チャイムが鳴り、他のお客様がいない店内にスーツ姿の若い男性が入ってきた。三十歳前後だろうか。まっすぐな眉と整った顔立ちをしているが、目の下にくまがあり、疲れた様子が見て取れる。


「コーヒーを……いただけますか」


 声は低く、やや緊張している。カウンター席に座った男性は、おずおずとメニューに目を落とす。


「ブレンドでよろしいでしょうか」


「はい……お願いします」


 コーヒーを淹れながら、さりげなく男性の様子を観察する。左手の薬指には結婚指輪。しかし、時折それを無意識に触っている。視線は定まらず、店内を落ち着きなく見回している。そして……。


「窓際の、あの立て札が気になられますか」


 男性は一瞬驚いたような表情を見せ、すぐに俯いた。


「……そんなに分かりやすいですか」


「いいえ」


 カウンターの向こうで微笑む。


「ただ、このお店には様々な事情を抱えた方が来られます。皆さん、最初は同じような表情をされていらっしゃるんです」


 コーヒーを差し出すと、男性はカップを両手で包み込むように持った。温かさを確かめるような、すがるような仕草。


「よろしければ、お話をお伺いさせていただければと存じます」


 男性は深いため息をつき、おもむろに口を開いた。


「妻の様子が……最近、少し変なんです」


 その言葉に、私は無意識に背筋を伸ばしていた。


「もう少し詳しくお聞かせいただけますでしょうか」


 男性――彼は津田つだ 浩次こうじ様だと自己紹介してくれた――は、言葉を選ぶように慎重に話し始めた。


「半年前に退職してから……いえ、その少し前からかもしれません。スマートフォンを触る時間が急に増えて」


「なるほど。退職されてからは、お仕事をされていらっしゃらないのでしょうか」


「ええ、子作りのためにと……」


 津田様の声が僅かに震える。静かに耳を傾ける。


「最近は、休日に『用事がある』と言って出かけることも増えて。帰りも遅くなるようになって……」


「お帰りになられた際、何かご様子で気になることはございますか」


「化粧が薄くなっていたり……香水の香りが違ったり……」


 私は静かに紅茶を淹れ始めた。アールグレイの香りが、緊張した空気を柔らかく包み込む。


「申し訳ございません。大変失礼とは存じますが、ひとつお尋ねしてもよろしいでしょうか」


 津田様が顔を上げる。その瞳には不安と期待が混ざっていた。


「奥様に……どなたか特別な方がいらっしゃるのではないかという不安を感じていらっしゃいますね」


「……はい」


 言葉少なく頷く津田様の前に、紅茶を置く。


「どうぞ、アールグレイでございます。こちらはサービスですので、ご安心くださいませ。こちらをお飲みいただき、少し息を整えてられるのがよいかと」


 促されるままにカップを持ち上げる手が、やや震えている。瞳の奥に、悲しみの色が深まっていく。


「このような時期は、ご自身の心も不安定になりがちでございます。拙いアドバイスではございますが……」


 ゆっくりと言葉を継ぐ。


「まずは確かな事実を、慎重に見極めていくことが肝要かと存じます。そのためにも、まずは津田様自身のお気持ちやお考えを整理されることが重要でございます」


 津田様の表情が、僅かに和らぐ。


「また改めて、ゆっくりとお話を伺わせていただけますでしょうか。その際は、奥様との思い出や、最近の変化など、より詳しくお聞かせいただければ……」


「はい、ぜひお願いします」


 津田様が去った後、私は窓際に立ち、桜の花びらが風に舞う様子を眺めていた。


 明日から、また新しい物語が始まる予感がしていた。

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