第26話 偶然の後日談

 季節は移ろい、華凛と最後に会った日から1年が経っていた。僕は休日の午後、いつものようにミニシアターの前に立っていた。でも、中には入らない。ただ、そこに立ち尽くすだけだ。


 かつては週末ごとに足を運んだこの場所。今では、遠い昔の思い出のようだ。


「あの、すみません」


 後ろから声をかけられ、僕は我に返った。若いカップルが困惑した表情で僕を見ている。邪魔になっていたんだろう。


「あ、すみません」


 僕は慌てて脇に寄った。カップルは軽く会釈をし、仲睦まじく映画館に入っていった。


 彼らの後ろ姿を見送りながら、僕は深いため息をついた。あの頃の僕たちも、こんな風だったのだろうか。華凛と二人で映画を見に来たあの日々が、まるで走馬灯のように脳裏をよぎる。


 ポケットの中の財布が、やけに軽く感じられた。映画を見る余裕なんて、もはやない。ビルメンテナンス会社での仕事は重労働で、給料は最低限。家賃と生活費を払えばあとは残らない。趣味どころではないのだ。


 スマートフォンを取り出す。誰からも連絡はない。仕事一辺倒で生きてきた僕。仕事の同僚や上司、部下との交友関係しか持っていなかった。そのため、友人という友人がいない。両親はすでに鬼籍に入っており、兄弟とは疎遠。僕を僕として見てくれる人は誰もいない。


「はぁ」


 深いため息が、人混みの中に吸い込まれていく。


 歩道を歩きながら、僕は自分の人生を振り返っていた。かつては大企業の本部長。高い地位と、それに見合う収入。家族もいた。最後は華凛という愛人までいたくらいだ。


 だけど今。全てを失った。


 家族は僕から離れ、仕事は失い、愛人にも見捨てられた。そして、最後の慰めだったはずの映画さえ、もう楽しむことができない。


「全て失った、か」


 自嘲気味に笑う。でも、その笑いは苦いものだった。


 ふと足を止めると、目の前には不倫相談を承る喫茶店があった。あの日、ここに来ていなければ。恵子たちがここで相談していなければ。そんな思いが頭をよぎる。


 でも、何を思ったところで、自分がしでかしか過去を変えることはできない。時計の針を戻すことはできないのだから。


 僕は再び歩き出した。行き先もなく、ただ歩く。


 これが僕の選択の結果なのだ。一時の快楽を求めて、大切なものを捨てた報いだ。


 それでも、僕は生きていかなければならない。たとえ全てを失っても、明日はまた来るのだから。


 ミニシアターの看板が、夕暮れの中でぼんやりと輝いていた。僕はそれを最後に見上げ、そっと背を向けた。


「さようなら」


 誰に向けた言葉なのか、自分でもわからない。ただ、何かと決別する必要があった。過去の自分か、失った全てか、それとも他の何かか。


 僕は歩み続ける。これからの人生に何が待っているのかはわからない。でも、一歩ずつ前に進むしかない。


 全てを失った今、僕にはもう失うものは何もない。


 だからこそ、また一から始められる。そう思うことにした。


 夕暮れの街を、僕は歩み続けた。

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