第25話 偶然の終わり
雨上がりの歩道を、僕は重い足取りで歩いていた。華凛と会う約束をしたのだ。あの日以来だ。慰謝料を渡した日以来。あれから半年が経っていた。
待ち合わせ場所に着くと、華凛はすでにそこにいた。白いワンピース姿の彼女は、相変わらず美しかった。でも、僕の目には何か違って見えた。
「お待たせ」
「いいえ、わたしも今来たところよ」
華凛の声は、あの日と変わらなかった。でも、何かが違う。彼女の目つきだろうか。それとも僕の気のせいだろうか。
「久しぶりだね」
口にしようか迷ったものの、僕は続けて言葉を発した。自分のことながら、映画を楽しめる心境になっているとは言い難い。
「映画、観に行く?」
そんな僕の心を見透かしたように、華凛は首を横に振った。
「いえ、今日はゆっくり話がしたいの。カフェに行きましょう」
そう言って歩き出す華凛についていく。華凛が先導していった先にある喫茶店には見覚えがあった。何度か華凛と一緒に入ったこともある喫茶店だ。カウンターにだけ「不倫相談承り〼」という小さな看板が置かれた喫茶店。
不意に、恵子や燈、悠人がいるんじゃないかと思って左右を見回してしまう。
「どうしたの?」
「あ、いや、なんでもないよ。そう、なんでもないんだ」
だが、僕の思いとは裏腹に、かつての家族の姿はどこにもない。燈自身、たまたま入ったと言っていたのだ。それに、この喫茶店がきっかけとはいえ、彼女たちにとっても好んで来たい場所ではないのかもしれない。
「変な勝巳さん」
くすくす笑う華凛とともに、喫茶店に入った。席に着き、注文を終えると、華凛は真剣な表情で僕を見つめた。
「勝巳さん、まずはお礼を言わせて」
華凛が切り出した。
「あの時、慰謝料をきちんと渡してくれて、本当にありがとう。助かったわ」
僕は少し驚いた。
「いや、当然のことだよ。僕から言い出したことだからね」
不倫のきっかけは華凛だったかもしれない。けど、そのあと関係を続けたのは僕のほうだと思っている。だから、華凛に迷惑をかけたくなくて、慰謝料を請求されたら金額を教えてほしいと連絡をしていたのだ。思いの外、請求された慰謝料の金額が高かったので、早々にマンスリーマンションを引き払うことになってしまったのだが。
華凛は微笑んだ。
「それでも、感謝してるわ。あなたの誠実さには本当に救われたの」
僕は照れくさくなって顔を背けながら頷いた。
「勝巳さんは大丈夫?あれから連絡がなかったから心配してたの」
「で、あの後はどうなったの?」
僕は深呼吸をした。
「ああ、すまない。実は……離婚が成立したんだ」
華凛の目が大きく見開いた。
「え、本当?」
「ああ」
僕は頷いた。
「もう手続きは全部終わっているよ」
華凛の表情が一瞬喜びに染まったのを、僕は見逃さなかった。でも、それはほんの一瞬のことだった。淡い期待が胸に宿る。
「そう……」
華凛は言葉を選ぶように話した。
「大変だったでしょう」
僕は苦笑いを浮かべた。もう、終わった話だ。自分では、どうにもならないし、どうにもできない。
「ああ、大変どころじゃなかったよ。実はね……」
そこで僕は躊躇した。でも、もう隠す必要はない。全てを話そう。きっと華凛なら受け入れてくれるはずだ。
「離婚だけじゃなくて、会社も辞めることになったんだ。いや、正確には辞めさせられた」
華凛の表情が凍りついた。
「今は別の会社で働いてる。朝から晩まで必死に働いてるんだけどね。でも、給料は……前の5分の1以下かな」
僕らの間を流れる空気が澱んでいくような気がする。あれだけ心と体を通わせた華凛を信じたい。だが、僕は恐怖に負けて華凛の顔を見ることができなかった。僕は続けた。
「財産分与と慰謝料で、資産はほとんどなくなった。君に渡した分もあったしね。だから今は……」
「待って」
華凛が僕の言葉を遮った。
「つまり、あなたは……」
「ああ」
僕は頷いた。
「お金はないし、地位もない。ただのおじさんだよ」
沈黙が流れた。そこでようやく、華凛の顔を見る覚悟ができた。恐る恐る視線を上げ、華凛の顔を視界に収める。
僕は衝撃を受けた。僕の前に座っている華凛は、今までと同じ華凛なのだろうか。そう思うくらい、華凛の表情は抜け落ち、目には以前のような輝きはなかった。
「はぁ」
華凛がため息をつく。
「わたし、もう行くわ」
「え?」
僕は驚いて声を上げた。
「でも、まだ会ったばかりだし……」
「もう十分よ」
華凛の声は冷たかった。
「さようなら、勝巳さん。いえ、冴喜原さん」
華凛は立ち上がり、僕に一瞥もくれずにカフェを出て行った。僕は茫然と彼女の後ろ姿を見つめた。
将来を約束したわけでもないのに、華凛と一緒になれると思い込んでいた。一緒に映画を観て、感想を話し合う。つつましくも幸せを感じる生活を、彼女と一緒にできると期待していた。
でも、そうではなかった。華凛は僕ではなく、僕のお金や地位を見ていたのだ。幾度となく体を重ね、心を通わせてきたつもりだったのに。それは、僕の思い込みだったようだ。
僕はコーヒーカップを見つめた。冷めきったコーヒーが、僕の心そのもののようだった。
淡い期待を打ち砕かれ、気持ちの支えを失った。後悔だけが、重く僕の胸に残った。
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