第24話 偶然の転身

 朝5時、スマートフォンのアラームが鳴る。僕は重い目蓋を開けた。窓の外はまだ暗い。


「そうだ、今日からだ」


 身体が重く感じる。ビルメンテナンス会社での初日。かつての自分なら考えもしなかった仕事だ。


 狭いアパートの風呂場で顔を洗う。鏡に映る顔は、以前の僕とは別人だった。目の下には濃いくまができ、頬はこけている。


「我ながら自分自身と思いたくないな」


 簡単な朝食を摂り、駅に向かう。通勤ラッシュになる前の電車に揺られながら、僕は数ヶ月前の自分を思い出していた。高級なスーツに身を包み、運転手付きの車で颯爽と出社していた日々。それが今や、作業着姿でごった返す電車に乗っている。


 会社に到着すると、同じような作業着姿の人々が集まっていた。僕と同じか年上の人もいるが、大半は若そうだ。


「おい、新人!こっちだ」


 悠人と同じか少し上くらいの若い男性に声をかけられ、僕は慌てて近寄る。


「はい、よろしくお願いします」


 かつて部下たちに向けていた言葉を、今は自分に向けられている。何とも皮肉な気分だ。


 作業の説明を受け、僕は早速清掃作業に取り掛かった。慣れない動作に早速体が悲鳴を上げる。汗が噴き出し、シャツが背中に張り付く。


「もっと丁寧にやれよ」


 後ろから声がする。振り返ると、年下の先輩社員が不機嫌そうな顔で立っていた。


「すみません」


 僕は慌てて謝罪した。かつての自分も、部下にこんな態度を取っていたのかもしれない。もう取り返しのつかない過去を憂いながら、今はただ黙って従うしかない。


 どうにかこうにか清掃作業を進め、ようやく昼食を兼ねた長めの休憩時間になった。昼食を取りながら、同僚たちは楽しそうにおしゃべりしている。僕はその輪に入れず、一人でコンビニのおにぎりを食べた。


「はぁ、昔は高級レストランで接待してたんだけどな」


 そんなことを考えていると、ご飯が喉に詰まり、むせてしまった。同僚たちから白い目を向けられているような気がして、肩身を狭くする。


 なんとか仕事を終え、くたくたになって帰宅する。狭いアパートのドアを開けると、暗い部屋が僕を出迎えた。


「ただいま」


 誰もいないのがわかっているのに、つい癖で声を発してしまう。そして、当たり前だが返事はない。この静寂が僕の心に重くのしかかる。


 レトルトご飯とレトルトカレーを温める。テレビをつけっぱなしにして、黙々と夕食を取る。


 そろそろ寝ようと思ってテレビを消そうとしたところで、新作映画の紹介が流れ始めた。制作発表の情報を知り、華凛と観たいと話し合っていた映画だった。


「ああ、もう公開する時期か」


 だが、今の僕には映画を観る余裕なんてない。時間も、お金も。


 食事を終え、片付けをすると明日の準備をする。体中が痛む。でも、これが新しい日常だと思うしかない。


 薄いせんべい布団を敷いて横たわり、天井を見上げる。目を閉じると、かつての生活が走馬灯のように駆け巡る。


「あれは、もう、夢なんだ」


 自分に言い聞かせるように、深いため息をついた。明日も早いのだ。寝なければ。


 でも、なかなか眠ることができない。新しい現実の辛さと、失われた過去の重さに、僕の心は押しつぶされそうだった。

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