第23話 偶然の転落

 僕は、マンスリーマンションの窓から外を眺めていた。別居を始めてから暮らしてきたこの部屋も、もう長くは住めそうにない。離婚時の過度な経済的譲歩のせいで、この部屋の賃料の支払いが困難になってきたのだ。無理をすれば、まだしばらくは住んでいられる。だが、今後を考えるとここは引き払ったほうがいいだろう。


「ここを出なきゃならないのか」


 呟きながら、僕は荷物をまとめていった。新しい住まいを探す必要があったが、選択肢は驚くほど限られていた。


 数日後、不動産屋の紹介で見つけたアパートの前に立っていた。古びた外観に、僕は思わずため息をついた。


「こちらが、お客様にご紹介できる物件になります」


 不動産屋の男性が申し訳なさそうに言う。まだ若手と言われる年齢だろうに、きちんとスーツを着こなし、こちらを見下すようなそぶりを見せない好青年だった。対する僕はというと、シワの寄ったシャツにプリーツの消えたスラックス。革靴も薄汚れているように見える。


「わかりました。中を見せてください」


 玄関を開けると、狭さに驚いた。マンスリーマンションの半分以下の広さだろうか。不動産屋の男性は清掃済みと言っていたが、壁紙は黄ばみ、床はところどころ傷んでいる。


「これが……僕の新しい家か」


 現実を受け入れるのに、少し時間がかかった。


 引っ越しの日。僕はマンスリーマンションに置いていた荷物をすべて自力で運んでいた。引越し業者を頼む金も節約しなければならない。荷物を運ぶため、レンタカー屋でトラックを借りた。慣れない車をおっかなびっくり運転する自分に、情けなくなってくる。


 なんとか新居となるアパートに最後の荷物を運び入れながら、僕は改めてこの部屋の狭さを実感した。かつての生活が夢のように思える。


「家はなんとかなった。次は仕事だ」


 だが、再就職活動は、想像以上に厳しいものだった。前職の経験を活かすため、同業種の会社数社に応募したのだが、すべて書類選考で落とされた。不審に思っていると、あるイベントで一緒になってから仲良くさせてもらっていた人から電話があった。その人との交友関係は、彼が役職定年を迎えたことで途絶えてしまっていた。


「あ、お久しぶりです。どうされたんですか?」


「どうされたもこうされたもない!いったい何をしでかしたんだ!?君が所属していた会社から、君が営業機密を持ったまま退職した可能性が高いので雇わないでほしいとわざわざ連絡があったんだぞ。本部長職がどれだけの機密情報に触れられるのか自覚がなかったのか!?」


 友人とも思えるほど仲の良かった人から発される声に、僕は意識が遠のいていくのを感じる。なんとか謝罪の言葉を口にし、競合他社には応募しないことを約束して電話を切った。そして、僕は膝から崩れ落ちた。


 それからは、別業界で年齢不問を掲げている会社へ応募し続けた。しかし、どれもこれも書類選考で落とされる日々。稀に面接に漕ぎ着けるものの、一次面接を突破することはなかった。


「うーん。大企業の本部長だったって言うから来てもらったけど、経歴詐称してない?こちらの期待外れもいいところだわ。帰っていいよ」


 ベンチャー企業と呼ばれる会社にも応募した。面接に呼ばれていくも、悠人くらいの若い男にボロクソにこき下ろされ、面接時間10分で帰らされたこともあった。


 また、突然の退職理由を詮索されることもある。定年退職まで秒読みと言ってもいいくらいの年齢になって、退職をしているのだ。何か問題を抱えているのではないかと疑う面接官を前に、僕は言葉に詰まった。


「実は、その……個人的な理由で……」


 どう説明すればいいのか。不倫で会社を辞めざるを得なくなったなんて、とても言えない。そんな僕の態度が、面接官の目には不審者のように映るのがわかった。不信感と疑念が浮かんでいる。


「では、結果は追ってご連絡いたします」


 もう何度目だろう、この言葉を聞くのは。結果はいつも同じだった。


 古びたアパートに戻る道すがら、僕は立ち止まった。ビルのガラスに映る自分の姿に、僕は愕然とした。疲れきった表情、しわだらけのスーツ。かつては大企業の本部長として肩で風を切っていた面影はどこにもない。


「これが、今の僕か」


 自尊心が深く傷ついていくのを感じる。でも、ここで諦めるわけにはいかない。明日もまた、新しい会社に応募しよう。そう自分に言い聞かせながら、僕は小さな部屋への帰路を急いだ。


 その小さな部屋の窓から見える狭い景色に、僕の現在の人生が凝縮されているようだった。

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