第22話 偶然の贖罪
義父、いや元義父の家で離婚届を記入し、自己都合退職を勧められた日。家に帰って退職届を書いた。今まで何通も退職願や退職届を受け取ってきたが、まさか自分が書くことになるとは思わなかった。インターネットに公開されている中で、シンプルそうなフォーマットを選び、書き写すかのように退職届を書いた。
次の日は朝一で出社して人事部に行くと、人事部長だけが座っていた。人事部長に僕の退職届を差し出すと、通常の自己都合退職と同様に、2週間後に退職となることが告げられた。退職日までは有給休暇扱いにしてくれるのだそう。退職届を提出した日も、有給休暇扱いにするから早く帰るように言われた。
それから、恵子が雇ったという弁護士経由で連絡を取り、荷物の引き上げや財産分与のための名義変更などを行なっていった。ようやくひと段落ついたところで、元義父の家での恵子との会話が思い出される。
◇◇◇
僕は、震える手で離婚届を見つめていた。目の前には、20年以上連れ添った妻。いや、もう元妻となる恵子が座っている。彼女の表情は硬く、僕を見る目にはかつての温かみは感じられなかった。
「勝己さん、これに署名してください」
恵子の声は冷たく、事務的だった。僕は躊躇いながら一緒に差し出されたペンを手に取る。僕が書くべき場所は、鉛筆で印を付けられていたので、書く場所に悩むことはなかった。印鑑も、仕事での押印のため持ち歩いていたものがあったので押印もできた。いや、できてしまったといったほうがいいかもしれない。
離婚届に記入を終えると、恵子は1枚のA4用紙を差し出してきた。何もわからずに受け取ると、上部には共有財産目録の文字。
「離婚するときには、財産分与という権利があるそうです。そのために必要ということなので、わたしのわかる範囲で共有財産の目録を作らさせていただきました。結婚後に得た財産で、あなただけで管理しているものはないはずだけど、念のため確認してください」
言われるがまま、渡された書類に目を通す。僕が把握している限りの財産がすべて記されている。預貯金、証券口座、家、車、保険。退職金や年金まで書かれていた。
「最後のページには、こちらが希望する財産分与の内容を書かせていただきました。これには、慰謝料の分も含んでいます」
恵子が出してきた財産分与の希望は、慰謝料と合わせて共有財産の3分の2を求めるものだった。一瞬、そんなに渡さなければならないのかという思いが浮かぶも、これまで尽くしてきてくれた恵子を裏切ったのは自分であるという悔恨の思いに塗りつぶされる。30年もの間連れ添い、僕や子どもたちを支えてくれた恵子。そんな彼女を裏切った僕にできることは、もうお金を渡すことしか残されていないのだ。
「……これでいい、です」
罪悪感と感謝の念に背中を押され、僕はこの内容を受け入れることにした。
「……本当にそれでいいの?」
僕の返答は予想とは違っていたのだろう。言葉を選んでいる様子だった恵子が、静かに尋ねた。
「弁護士さんは、慰謝料や財産分与は裁判で争うこともあるって言ってたわ」
僕はゆっくりと顔を上げ、恵子の目を見つめた。そこには怒りや憎しみではなく、ただ疲れと悲しみが溢れていた。
「いいんだ。これで、いいんだ」
僕は小さく頷いた。これで許してもらえるなんて思っていない。燈や悠人から向けられる視線は、厳しいままだ。
「君の言う通りにするよ」
改めて財産分与の希望を見返す。今まで専業主婦をやってきてくれた恵子が、今から就職するのは難しいかもしれない。そう考えると、3分の2を渡したところで、心穏やかな老後を送るには厳しい金額しか渡せないのだ。罪滅ぼしにもなりはしないだろう。
「これは僕がしたことへの償いなんだ。君は長年僕を支えてくれた。そのことへの感謝の気持ちもこめて、君の要求通りにさせてほしい」
恵子は驚いたように僕を見つめた。
「僕が選んだことだから」
僕は、離婚届に続き、財産分与と慰謝料の書類にも同意の印を押した。頭の片隅では、これが法的に適切なのか、将来の生活はどうなるのかという不安が渦巻いていた。しかし、それ以上に強かったのは、恵子への罪悪感と、自分の犯した過ちへの贖罪の思いだった。
恵子は黙ったまま、僕を見つめていた。彼女の目に涙が光るのを見て、僕は胸が締め付けられる思いがした。30年の結婚生活が、こんな形で幕を閉じるなんて。そんな思いが、こちらにも伝わってくるようだった。
◇◇◇
元義父の家を出たときに感じていた罪悪感と覚悟を思い出した僕は、深く息を吐いた。あのときが、僕の新しい人生の始まりなのかもしれない。
改めて、僕は自分の決断の重みを感じていた。退職金のほとんどを失い、貯金も底をつく。これからの人生は想像以上に厳しいものになるだろう。
でも、これが僕の選んだ道なんだ。罪滅ぼしの気持ちと、恵子への感謝の念。それが全てを決めてしまった。
僕は窓の外を見た。どんよりとした曇り空が、これからの僕の人生を暗示しているようだった。
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