第21話 偶然の断罪(後)
「……入ってきなさい」
深いため息をついた義父。彼の後ろにある襖が開いたような音と、誰かが茶の間に入ってくる音がした。
「勝巳さん、顔を上げてください」
僕は、聞くはずのない声に勢いよく顔を上げた。よくよく考えれば、ここは義実家。恵子の実家だ。恵子がいても不思議ではない。恵子だけでなく、燈と悠人もいた。久しぶりに見る家族の姿に、目に涙が浮かんでくる。
「恵子……燈、悠人……」
「勝巳さん、こちらを記入してください」
しかし、目の前に置かれた緑色の線が描かれた紙を見て、絶句する。離婚届。まさか自分が実物を目にするとは思ってもいなかった書類。
「お父さんのやったことは、もう取り返しがつかないわ」
燈が冷たく言い放った。
「ずっと、尊敬していたのに」
悠人は俯いたまま言葉を紡いだ。
「俺たち、もう大人なんだよ。父さんの選択がどういう意味なのか、わからないわけないだろ」
そうだ。華凛との関係を結ぶ判断をしたのは僕。家族との絆さえ軽んじてしまったのだ。
「みんな、僕は本当に……」
「もういいんです」
恵子が僕の言葉を遮った。
「もう十分です。わたしは、あなたとやり直したいと思えません。子どもたちも、この決断に賛成してくれました」
僕は慌てて燈と悠人の表情を見る。しかし、2人から向けられるのは冷たい視線ばかり。再び恵子を見ると、決意に満ちているものの、どこかすっきりとしたような表情。妻と子どもたちから向けられるすべてが、僕の愚かさを物語っていた。
そのとき、義父が咳払いをした。
「勝巳くん。仕事のことを忘れていないかね」
なぜここで仕事の話が出てくるのか、僕には理解が及ばなかった。
「君が紫月 華凛という女性と2人で会っていることを目撃している社員が複数いる」
「義父さん、それは……」
義父の声は厳しさを増していた。
「内部告発制度を利用し、人事部と我々取締役会のもとに君が不貞行為を働いているのではないかと報告してくれた社員がいるのだよ。ハニートラップを懸念した社員がいたということは、コンプライアンス教育の賜物とも言えよう」
一度言葉を切った義父は、身内としての表情ではなく、取締役としての表情になっていた。そう、義父は僕が務める会社の取締役の1人。僕が本部長なんて職に就くことができたのも、取締役の娘婿という下駄があったことは想像に難くない。だが、華凛との逢瀬にばかり目がいって、そんな大事なことも見ないようにしていたなんて。
「冴喜原 勝巳。君には会社を辞めてもらう。自己都合退職でよいからな。明日、人事部に辞表を提出しなさい。人事部には話を通してある。最短で処理してくれるはずだ」
僕は愕然とした。家庭も、仕事も、すべてを失うことになる。頭の中で、華凛の笑顔が浮かんでは消える。あの幸せな時間は、こんな結末を招くためだけにあったのだろうか。
「わかり、ました」
僕の声は、自分でも聞き取れないほど小さかった。家族の冷たい視線の中、僕は全てを失う覚悟を決めた。これが、自分の犯した過ちへの償いなのだと。
茶の間を後にする時、僕は振り返った。そこには、かつての幸せな家族の思い出が、もう二度と戻らない過去として佇んでいた。
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