消しゴム泥棒

香久山 ゆみ

消しゴム泥棒

 ぬすみを働いた。

 生まれて初めて。小学五年生の秋。体育の授業のため、教室には誰もいなかった。最後まで教室に残った私は、そっと隣の席へ手を伸ばした。

「あれー、消しゴムがない!」

 次の算数の授業で、隣の席から声が上がった時には、冷や汗をかいた。スカートのポケットに入れたマサキ君の消しゴムを、ぎゅっと握りしめた。

 どっか転がって行ったんじゃないのー、なんて皆から言われて、しぶしぶ消しゴムを諦めたマサキ君が、

「わりぃ、消しゴム貸して」

 と、隣の席の私に声を掛けてくれたのは予想外の展開だった。

 私は慌てて、一番お気に入りのイチゴの香りつき消しゴムを渡した。

「サンキュ」と彼は笑った。消しゴムを渡す時に彼の手に少し触れたので、私は真っ赤になって蒸発してしまいそうだった。

 私の消しゴムがマサキ君の手に渡り、ごしごしと小さくなるのをドキドキして見ていた。マサキ君は消しゴムを使い終わると、そのままポイと自分の筆箱に放り込んでしまった。「あ」と、小さな声を上げかけて、慌てて私は口を塞いだ。

 私の消しゴムが、彼の筆箱に収まったことに、いっそうドキドキした。

 そのまま消しゴムは返ってこなかった。忘れちゃったのだろうか。なくしちゃったのだろうか。それとも、私の消しゴムだから……? なんてことを妄想して、しばらくの間はひとりでわあわあ盛り上がったりしていた。


 そんな、小さな思い出。

 私がぬすみを働いたのは、その一度きり。のはずだった。


 小学校を卒業して二十年振りの同窓会。

 なんでかな。酔っていたのかな。二十年ぶりに会うマサキ君は、もう全然昔の面影はなくて、少しお腹だって出ていて。なのに。たまたま隣同士に座った時に、ついほろほろと言ってしまったのだ。

「私、マサキ君のことずっと好きだったんだよ」

 消しゴムを盗んじゃうくらいに。その時マサキ君は、へぇ、と笑っただけだった。だから私もえへへと笑って、そのまま別の子とのお喋りに興じた。

 けれどその後、二次会がお開きになって、気づいたら、マサキ君に手を引かれて、私たちはふらふらと薄暗いホテル街の、白いベッドの上に寝そべっていた。

 二回目。

 私はまた、ぬすみを働いてしまった。マサキ君は結婚している。しかも、新婚さんだ。同窓会の現況報告でも聞いたし、隣に座った時にも、二次会でも、聞いた。なのに。私は、妻ある男を盗んでしまった。

 マサキ君は、二人で会う時には奥さんの話をしなかったし、私も聞かなかった。初恋の延長線。そんな、あわくあやうい気持ち。


 だから、彼が奥さんの話をするようになった時、ああもうだめだと思った。

 案の定、「妻が妊娠したから、子どもが生まれたら、この関係も終わりにしよう」と言われた。だめだだめだ。この人は、奥さんの手が空くまでは、私に相手させようと言うのか。ばかやろう。だめだ。こんな奴。こんな。

 だから、その場で私から振った。振ってやった。


 うちに帰って、小学生の頃の宝物箱から、マサキ君の消しゴムを引っ張り出した。それで、卒業アルバムのマサキ君の写真にごしごしと消しゴムをかけた。

 ごしごしごしごし。

 一生懸命消しゴムしても、写真の少年は笑っている。大好きだったあの頃の笑顔。

 さいていさいていさいてい。マサキ君も。私も、最低だ。自分で自分の思い出を泥だらけにしてしまった。あんなにきらきらと甘い思い出だったのに。

 ごしごしごしごしごし。

 消しゴムがなくなるまでこすり続けて、涙を拭ってみたら、写真はずいぶん色褪せたけれど、まだぼんやりとマサキ少年が笑っていて、泣けてきた。

 本当に、好きだったんだから。

 私のイチゴの消しゴム。まだマサキ君のところにあるのだろうか。

 ずっと、彼に盗まれたままだ。

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消しゴム泥棒 香久山 ゆみ @kaguyamayumi

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