終章
三月一日
「――立花」
窓際の席。暖かな日の光に包まれながら、俺は自身の記憶に残された少女の名前を口にする。
卒業式当日。桜の花びらが校庭に舞い、山も樹木によって青々と染まり始めている。強めの陽光が目に染みる。カーテンに遮られることもなく、直接注いでくるそれは、室温と体温をともに上昇させていた。
冬の終わりを追い越さんとする春の始まりは、暑さゆえに俺を苛立たせる。
けたたましい音が、教室中に響き渡る。俺は、反射的にドアのある方向を見る。
彼女ではないか。気付くと、俺はそんなことを考えていた。
分かっている。もう、彼女はここにはいない。どこを探しても、彼女が見つかることはない。
教室に入ってくるのも、俺の見慣れた少女ではない。表情のきつい古典の教師だ。クラスの連中に向け、式の開始時間に変更があったことを伝えに来たらしい。寝ている人間を起こし、話を始める。
「――なぁ、立花」
教師のことを無視し、俺は呟く。誰にも聞こえないような小さな声で。ぼんやりと、窓の外に広がる美しい世界を、彼女が変えたこの世界を、見下ろしながら。
三年三組三八番。ここに座っていると、いつも彼女が来てくれた。ぼんやりと、つまらなそうに空を見上げている俺を、彼女はいつも強引に連れ出してくれた。もう一つの賑やかな〝世界〟に。俺の望んだ〝記憶〟に。
「さよなら」
もう、やめよう。ふと思う。ようやく彼女は世界を変えたのだ。それなのに、前の世界を望むのは、彼女に失礼だ。それに。それに、この世界には無数の幸せが落ちている。今はそのことを知っている。目に見えないだけで、世界は幸せに満ちている。
ふわりとした風が、室内へと流れ込んでくる。温もりのある風。優しさのある風。
彼女がここにきて、俺に笑顔を向けている。そんな感覚に陥ってしまう。
風を浴びながら、俺は、一冊の小説のタイトルを思い浮かべる。
『窓際のアカシックレコード』と。
窓際のアカシックレコード 改訂版 橙コート @daidai_coat
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