桜の木の下で
新巻へもん
待ちに待った
少し風が出てきたようだ。
空気が湿り気を帯びる。
道路わきに一本だけ植えられている桜のかおりが一瞬した。
商店街の入口に佇む僕の耳に遠くのサイレンの音が聞こえる。
この二週間というもの僕を楽しませてくれた桜の花も今では緑の葉の方が目立った。
明け方には雨になるという。
この調子だと近日中にはすっかり葉桜になるのかもしれない。
昼間は人々が行き交うこの商店街もこの時間は静まり返っていた。
片側三車線の大通りの向こう側のアーケードも必要最低限の照明のせいか、まるで洞窟のように黒々とした口を開けている。
冥府に通じているのかもしれない。そんな妄想が浮かぶ佇まいだった。
世の中の誰からも相手にされない僕にとっては、いっそ冥府の方がマシな気もする。
でも、ぼくはこの孤独な世界に縛りつけられていた。
クルリと振り返る。
商店街の両側にシャッターが下ろされていた。
格安の中華料理店、ハンバーガーショップ、携帯電話の代理店、ベーカリー。
シャッターが下りているので、昼間と違って妙にうら寂しい印象を受ける。
けれども、ぼくにはこの方がずっと親しみやすかった。
笑いさざめきながら連れ歩く女子高生も、ベビーカーを押して歩く母親も、警察官も、疲れた顔のサラリーマンもすべて存在しない。
ぼくを無視するのであれば、それは存在しないのと一緒。
ならば最初からいない方が心が落ち着いた。
ぼくの目線の先に商店街が続いている。
やや傾いだ『さくらフェア』の垂れ幕ももうすぐ外されるはずだ。
まあ、僕には関係ないけれど。
この先に行っても駅までずっと同じような光景が広がっているだけだろう。
分かってはいたけれど、せっかくの機会なので少し歩くことにした。
世界にたった一人残されたぼくはただ一人の王様だ。
そんな空元気と裏腹に足音さえ立てずに百メートルほど歩く。
そこまで行くと胸が締め付けられるような気分がした。
もう戻らなくちゃ。
元来た道へと振り返ろうとするぼくは自転車に乗って商店街を走ってくる人影を見つける。
自転車通行禁止なのだけど、人通りもないからいいや、というつもりらしい。
モラルのないやつだ。
ぼくはとぼとぼと道を戻っていく。
ギッギッとペダルを漕ぐ音が近づいてきた。
かすかな期待をもって振り返る。
ぼくと同じ年頃の女性が乗っていた。頬が赤いのは少し酔っているのかもしれない。
未来へと希望に満ちた明るい顔がぼくに近づき、すぐわきを通り過ぎて行った。
ぼくは肩をすくめて再び歩き出す。
どんどん離れていく自転車は桜の木の横の横断歩道に侵入し横から猛スピードで突っ込んだ車に吹っ飛ばされた。
ぼくは急いで交差点に向かう。
喜びと期待に胸を膨らませて。
地面に横たわる女性はぴくりとも動かない。
ああ。これは助からないな。
ぼくはガードレールにくくりつけられたペットボトルと半ば萎れた花を見る。
三年ぶりに話し相手ができるかもと期待しながら、ぼくはじっとその時を待つことにした。
桜の木の下で 新巻へもん @shakesama
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