卵焼きの味

新巻へもん

溢れる

 カーテンの隙間から漏れる光で目が覚めた。

 セミダブルのベッドに置いてある二つある枕の片方は、昨夜と同じようにぽつねんとしている。

 哲郎は帰ってきてないんだ。

 はあ、とため息が漏れる。

 同棲を始めて五年。

 月日の流れていくのは早い。

 右も左も分からなかった新入社員の時期はすっかり過去のものとなって、お互いに中堅社員の立場に足を踏み入れていた。

 職場に拘束される時間が長くなり、仕事の人間関係が二人の間に浸食してくる。

 付き合いで断れなくて、そんな言葉と共に哲郎とすれ違う日々が多くなった。

 昔はもっと毎日が輝いていった気がする。

 寝室のドアを開けてリビングに出るとソファで哲郎が横になっていた。

 一か月ほど前、仕事でくたくたになった私が先に寝ているところに、お酒を飲んで哲郎が帰ってきたことがある。

 ベッドに身を横たえようとした哲郎に、私はかっとなって文句を言ってしまった。

「もう。やっと眠りについたところだったのに」

「ごめん……」

 哲郎は毛布を持って寝室を出て行ってしまう。

 悪いのは私だ。

 本当は別のことで不安を抱えていたのに、関係ないこのタイミングで怒りを爆発させてしまったのだ。

 今年中に私は三十歳の誕生日を迎える。

 友人の結婚式ラッシュも落ち着いてきた。

 未婚の友人もなんとなく二つのグループに分かれてきつつある気がしている。

 私は結婚したい。

 だけど哲郎にはっきり聞くことができていなかった。

 返事がもしノウだったらどうしよう。

 八つ当たり的に文句を言ったことを、本当はすぐに謝ろうと思っていた。

 でも、マガジンラックに刺さったまま哲郎が一度も手にすることのない結婚情報誌を見たときに、言いようのない気持ちが沸き上がってきてしまったのだ。

 結局、それ以来哲郎は深夜に帰宅するとソファで寝るようになってしまう。

 早く謝らなきゃ。

 時間が経てばたつほどきっかけはつかみづらくなり、二人の間の見えない溝が広がっていくような気がしてしまう。

 私はソファで寝る哲郎を見下ろした。

 昨夜友人からもらった電話の中身がリフレインする。

「あのね。キョウちゃん。言いにくいんだけど、胸にしまっておけなくて。哲郎さんのことなんだけど、若い女の子と親し気にウィンドウショッピングをしているのを見ちゃって」

 友人はそこそこお高いジュエリーショップの店名を告げた。

 参ったなあ。

 哲郎は年下で、私が猛アタックをして付き合い始めた。

 ちょっと何を考えているか分からないところはあるけれど、哲郎は温厚で顔がいい。

 タバコも吸わないし、ギャンブルなんてもってのほか。

 放っておいても次の彼女には苦労しそうにない。

 好きだったのになあ。

 私は音を立てないようにして朝食を作り始める。

 お湯を沸かして豆腐を入れだし入りの味噌をとく。

 納豆のパックをかき交ぜ、ボウルに卵を割って砂糖を入れた。

 冷凍庫からラップしたご飯を取り出し電子レンジで加熱する。

 小さな四角いフライパンに油を引き卵焼きを作り始めた。

 私の実家ではずっとしょっぱい卵焼きだったが、哲郎の好みに合わせてここではずっと甘い味付けだ。

 テーブルに料理を運ぶ。

 哲郎がソファから起き上がった。寝癖が酷い。

「お早う」

「……お早う」

 一昨日は誰と一緒に居たの?

 そう問いたい気持ちを飲み込んで機械的に朝の挨拶をする。

「頂きます」

 そう言う哲郎の顔は妙にさばさばした印象を受けた。

 味噌汁に口をつけ、卵焼きに箸を伸ばす。

 頂きますと言ったきり朝食に手を付けようとしなかった哲郎が咳払いをした。

「杏子。食事中にアレだけど、大事な話をしていいかな」

 私の箸が止まる。

 目線を上げると困ったような顔の哲郎と目が合った。

 私は無言で小さく頷く。

 口を開いたらどんなことを言ってしまうか自分でも想像がつかなかった。

「本当はきちんと用意をして話をすべきだと思うんだけど、僕はセンスがないからさ。手ぶらでこういうことを言うのも格好がつかないんだけど……。結婚しよう」

「何よ。新しい女ができたくせに」

 私は友人から聞いた話をぶちまける。

 哲郎は目に見えてうろたえた。

「誤解だよ。彼女は既婚者で、たまたま前を通ったときに婚約指輪の相談をしたんだよ。そしたら、それは杏子と一緒に買いに行くべきだって怒られたんだ。それに順番が逆でしょって」

 私の中を暴風が吹き荒れる。

「僕にも至らないことがいっぱいあるかもしれない。だけど、少しずつ歩み寄っていくつもりだよ。だから、僕と結婚してくれ」

 なによもう。

 散々気を持たせておいて。

 頭も寝癖が酷いじゃないのよ。

 色んな感情が渦巻いて言葉を口にすることができなかった。

 宙に止まっていた箸を動かして卵焼きをつかみ口に入れる。

 どうしてだろう?

 お砂糖と塩を間違えちゃったのかな。なんだかしょっぱいや。

 ご飯も納豆もお味噌汁も全部食べる。

 しゃべること以外に口を忙しく動かした。

 そして、ようやく口を開くことができる。

「うん」

 鼻が詰まってひどい声だ。

 じっと固まって私のことを見ていた哲郎の顔が緩む。

「ありがとう」

 哲郎はようやく箸を手に取った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

卵焼きの味 新巻へもん @shakesama

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ