活中

湖ノ上茶屋(コノウエサヤ)

第1話



 彼はチョコレートの箱を二枚連ねたような板を撫でた。

 その指の動きは不規則だった。

 私は紙をひらりとめくった。

 左の親指が自由にした一枚が、放物線を描き右の親指に触れる。

 私の左右の指もまた、彼と同様、不規則に動いていた。


 彼は板から視線を外し、ふうとひとつ息を吐くと、「なぁなぁ」と声をかけてきた。

 文末まで読み終えてから、「なんだい?」と返事をしたら、彼は言う。


「お前も、電子書籍にしたらどうだ?」


 ハァン、始まった。

 この面倒くさいくだり。

 

 私は電子書籍などに興味がない。

 ここまでキッパリと言うのには理由がある。

 私とて、それに手を出したことはあるのだ。

 彼の板の半分ほど、スマートフォンのアプリでね。


 しかし、気になっていた本を数冊買ってがっかりしたさ。

 物体ではなくデータだってのに数十円しか安くなく、さらに「解説は収録されておりません」ときた。

 そして、時に、「電子書籍に際し、仕様の都合上編集を加えました」などと言いやがる。


 おいおい、私は解説までしっかり読むタイプなのだよ。

 おいおい、私は誤字脱字をも愛しているのに、と、以後電子書籍には手を出さぬと決めたのだ。


 文庫、願わくば単行本。さらに言うならば、初版こそ至高である。


 私に電子書籍を薦める者の言い分は、たいていこうだ。

 本棚がいらなくなるから、部屋を広く使える。

 出先で手持ちの本を読み終えてしまった時、紙の本だと替えがきかないが、電子書籍なら板一枚。

 読んでチェックしておきたい一文があった時、付箋を貼るなどの手間がない。

 カビや紫外線を気にしなくていい。

 頻繁にセールをやっていて、時に半額――。


 いやいや、本は並べて背表紙の壁紙を作ってなんぼだ。

 読み終えた? それなら二周目にいけばいい。

 ああ、本屋に駆け込んでもいいなぁ。

 付箋かぁ。貼ったり剥がしたりが面倒であるし、程度の悪い付箋を使ってしまった場合の糊残りも気になるが、私はそもそもそれをしない主義だからなぁ。

 付箋なんか貼っていたら、物語のスピードに乗り遅れてしまうからね。

 カビや紫外線? 君は彼女の手を握ったり、頭を撫でたり、アクセサリーを買ってやったりしないのか? それと大差ないじゃないか。きちんと可愛がったその先には、カビも紫外線も存在しない。

 セール? ……セールは少し、魅力的だな。


 違う、違う。

 電子書籍なんざ、編集されたり割愛されたりの下位互換。電気がないと読めない鉄屑だ。

 ついでに言えば、きちんと紙で買わないと印刷業界が廃れてしまう。そんなことになってしまったら、私は紙の本を手に取れなくなるではないか。

 そうだ。だから、紙で買うのだ。


 紙をめくり、脳髄という名の炉にどんどんと放り込んだ文字たちを、燃して燃して、灰にならず残るもの。

 世の中的には『知識』などと言われたりするそれを、私は彼女の心臓として愛でるのだ。

 装丁に手を乗せ、思いを馳せ。

 そして鼓動を感じるのだ。

 ヒヤリ冷たい文字の連なりを。憎悪に満ちた文字のダンスを。キュンととろけるように甘い文字の恥じらいに、青く風吹く文字の疾走を。

 鼓動が訴えかけてくるメッセージを、感じ酔いしれるその時に、ストウブなど必要ないのだ。

 そう、活字こそ私のストウブで、彼女に触れれば――心は燃える。


「貸してやるから使ってみろよ」と差し出された板を、仕方なしに受け取り、すうと撫でた。

 温かみがない。

 いや、温いのだ。

 たしかに温い。

 電気的に。

 違う。

 木だ。

 木の温もりこそ至高だ。

 どうせ抱くなら人形よりも人間がいいように、そう――やはり私は、紙がいい。


「彼女がいてくれれば、それでいいんだ」


 私はぎゅうと本を抱きしめた。

 私には彼女が、いや、妻が。

 千人はいる。

 たまらない。

 最高の人生だ。

 しかし、彼は言う。


「お前、人間の彼女を作ったほうがいいぞ。生まれてこの方、女の温もりを感じたことなどないだろう。ああ、母ちゃん以外のな」


 この言葉は私の炉に入るなり、業火にさらされようが灰にはならず、私の一部となった。

 精錬されたそれは、溶け残りのココアのようでもあった。

 熱き牛乳風呂に放り込まれようが、形を成す。

 選ばれしカカオの集合体。


 ――母ちゃん以外の、女の温もり。


 家に帰れば、ぎっしりと本が詰まった棚がある。

 紫外線から守るために窓から離した結果、風通しが悪く、ゆえに毎日扇風機を使い風を送り込んで、湿気をはらっている棚が。

 世話が焼けるが、世話など負担でも何でもない。愛しきものたち。


 そんな愛しきものたちから発せられる「なぜ私をデートに連れて行ってくれなかったの?」などという文句の大合唱を感じるたび、私は皆に伝えている。


「安心してくれ。積読は必ず既読にする。それが私のポリシーだ。そして既読は、いつか必ず再読する」と。


 今日もまた、不満を感じ取り、それに酔う。

 あぁ、私は。彼女たちに求められているのだ。早く私に触れてと。

 空想世界に潜り込む私は、いつだって満たされている。

 しかし、物語の中にすまう薄っぺらい人間にばかり恋をして、熱き血が巡る人間への恋心が薄い。それは確かに事実である。


 とはいえ、譲れない。

 この背表紙の壁紙も、放物線を愛でる日々も、紙とインクの香りに酔う時間も。

 なければ生きてはいけぬほど、大切なものなのだ。

 どうしたらいい。

 どうしたら、女の温もりを感じながら、愛しきものたちを愛で続けることができるのか。


 現実から目を背けるように、活字を貪り食う。

 軽かった右手がどんどんと重くなる。

 そう、私はこの感覚がとても好きだ。

 もうすぐ終わると思った時、そこで休憩をとることなく、例え喉が渇いていても、駆け抜けるように読み耽るこの時間が好きなのだ。

 そうだなぁ、この状態に入ったら、来客があっても居留守だ。

 本から手を離すのは、腹を下した時くらいだ。

 これほどまでに、私を惹きつける人間など、居るのだろうか。

 千以上の愛する対象を持つ私に、木の温もりに勝る、温もりをくれる女など。


 さらなる愛しきものを迎えに行くため、置いていかないでの大合唱を感じながら家を出た。

 凍てつく風がびゅうと吹く。ブルブルと身震いするほどの寒空の下、こんなにも心が暖かいのは活字のおかげだ。

 人間の彼女がいたのなら、身体も温かくなるのだろうか。身体、とまでは言わずとも、せめて片方の手くらいは。

 欲を言うなら活字中毒の女がいい。

 顔には特に、こだわりはない。

 スタイル? ガリガリ以外なら。

 料理はできなくともいい。

 掃除はマメな人がいい。


 そんな女に会えたらいいが、会えるはずもない。

 否、仮に会えたところで、どのような運命的出会いであれば結ばれるのか分からない。

 諦めが混じる、白い息を吐き捨てた。

 人間探しはいったん捨て置こう。

 新しい彼女を探しに、私は本屋に溶けていく。

 暖房が効いた広い空間に満ちる、紙とインクの香りに誘われて、私はお手洗いを借りに行った。

 用を足し、手を洗い、ハンドタオルで水気を入念に拭き取りながら歩いていると、私はどきりとした。


 一目惚れだ。


 見つけた新刊、サイン本。

 ラスト一冊に手を伸ばす。

 紙を包んだフィルムに触れた、その手に冷たい指が走る。

 ごめんなさい、と謝る女の頬は赤い。

 駆けてきたのか、ハァハァとした、白い息。

 私は彼女に、それを譲った。

 否、この時。

 私は彼女にそれを譲って、私は彼女を手に入れたのだ。


 詳しいことは割愛しよう。

 というのは逃げのように思われてしまうだろうが、正直なところ、はっきりと覚えていないのだ。

 それは焼け焦げ灰となり、手元に残ったのは、彼女の温もりだけだったのだから。


 脳髄だけでなく、血も肉も骨さえも、熱く燃える日々を送る。たとえ、吹雪が眼前を白く染めようが、この体温で、溶かし切り拓く。

 ドクンドクンという拍動は、左から右へ流れゆく、紙のように。

 時に規則正しく、そして時に――他の全てを投げ出すほどの、熱さにペースを乱しながら。

 私は、およそ千とひとりの愛するものと共に。

 これから先、揺るぎない未来を紡いでいくのだ。



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活中 湖ノ上茶屋(コノウエサヤ) @konoue_saya

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