亜来輝

さきがけ

 目を覚ました。

 思考を微睡の中に置いてきたまま、周囲を見渡す。

 緑がかった部屋に、俺の顔を照らす無影灯。

 身体が動かしにくいと思って身体のほうに視線をやると、俺の身体は無数の紐で縛り上げられていた。

(なんでこんなことになってるんだ!?)

 身の危険を感じ、紐を解こうと何度も試みるが、手足を動かせるだけで終わってしまう。

「くそ、解けない!」

 何か方法は…と思考を巡らせている時、一人の足音が部屋の外から聞こえてきた。

 足音はだんだんこちらの方に近づき、やがて、俺のいる部屋の前で立ち止まる。開く気配のない扉が音を立てて開き、足音を立てていた人間の姿が露わになっていく。

 足音の正体は、白衣を着た医者・屑野(くずの)だった。

「おや、お目覚めでしたか」

「屑野…」

 屑野は、鉄の小台に金槌とアイスピックのような物を置く。

 この器具で何をするつもりなのか…そんなことを考えて器具を眺めていると、屑野が俺の意志を汲み取ったように説明し始めた。

「そういえば、あなたにはまだ、説明していませんでしたね。今からあなたに、『ロボトミー手術』を行います」

「ロボトミー、手術…?」

 聞いたことのない音の響きにもう一度聞き返す。

「そうです!今回はドライブスルーと呼ばれている方の術式で、すぐに終わる手術なんですよ。方法は簡単…」

 屑野は人の横顔を撮った写真を白衣から取り出し、小台の上にあるアイスピックを手に取る。

「この棒を使って、前頭葉を切り離すんです。目蓋からこの棒を刺して、ね?」

 横顔の写真を使って、ロボトミー手術の真似を行う屑野。


…今から、このジェスチャーが自分の脳味噌の中で再現される。


 警鐘のように、心臓がドクドクと音を立てる。

 うじ虫が這い上がるような寒気が、俺の身体を支配した。

「お、俺はこんなこと許可してないっ…」

 カラカラになった喉から、必死に声を絞り出して訴える。

「けれど、あなたのお母さんは同意書を出してくださりましたよ。直筆がこちらに」

 屑野は白衣から一枚の紙を出し、俺に見せる。そこには施術を受ける俺の名前と、それを同意する母親の名前が記されていた。

(嘘、だろ…)

「でも!俺は正常で、」

「本当にそうでしょうか」

 屑野は、幼子を宥めるような声で喋り続ける。

「あなたの脳波は異常と診断されています」

「それはお前が偽装して、」

「ですが、あなたには犯罪履歴がありますよ」

 沈黙がこの場に落ちる。

「釈放されたあなたはご実家で兄にあい、理由もなく兄に暴行した、と。」

「…違う」

「そしてこれは、カルテに残っていないことですが、昔、精神科に通っていたとご家族から聞きました」

「違うっ!!!」

「…これが、あなただけの判断で手術の是非を行わなかった理由です」

 屑野は資料を小台に置き、アイスピックの棒を右手に持つ。

「ロボトミー手術をすれば、もう、何も感じなくて済むんですよ…今からあなたをすくってあげますね」

 刺されないよう必死で頭を振るが、そんな抵抗は無慈悲に、屑野の取り出した縄で抑えられてしまう。

「やめろ…やめろっ!」

 ぎゅっとつぶっていたまぶたをこじ開けられ、アイスピックが眼前に迫る。

(もう、止められないのか…?)

 抵抗するのを諦めかけた時…

 記憶の断片が洪水のように、脳の中を巡り始めた。

 今まで過ごしてきた二十四年の人生が、脳内で再生される。走馬灯だ。走馬灯は止まることなく、流れ続ける…

…思えば、心の満たされない人生だった。


 高校の時までは幸せだった。誰もに認められ、自分の好きなことができたから。行きたい大学もあって、将来の夢も何度も描いた。

 けれどそんな憧れは、兄によってぶち壊された。


 ギャンブルや女に溺れていた兄は、借金にも溺れ、借金を返せなくなった兄のために、俺の大学費を全て、兄に充てる羽目になった。

 それでも金が足りなかったから、俺は大学に行く事を諦め、働くことになった。

 就くつもりのなかった建築業の仕事をして、夢を壊した借金まみれの兄のために働く。それが何よりも苦痛で、何度も悔し涙を流した。

 だけどこんな苦痛な仕事でも認められたことがあって、その時の褒め言葉が今でも忘れられない。

 自分が報われたような気がして、本当に嬉しかった。

 それがきっかけでやる気を出した俺を、好ましく思わない奴がいた。


 ある日。手抜き工事を見つけた俺は、現場長に報告した。現場長は、手抜き工事を見逃してほしい、と言って俺に何枚もの諭吉を差し出してきた。

 いますぐにでも金が欲しかった俺は、受け取ってしまった。…それが、いけなかった。


 翌日、俺は犯罪者にされていた。人伝で聞いた犯罪者像の俺は、手抜き工事がないのにも関わらず、手抜き工事だと言い張り、金を寄越せと現場長に強請っていたらしい。

 社長に直談判しに行ったが、証拠として出されたものは、手抜き工事の形跡がどこにもなかったこと。そして、金の受け渡し履歴が俺の名前以外載っていなかったことだけだった。

 現場長に嵌められた、と思った俺は、すぐ現場長の元へ急いだ。

 現場長は当たり前だとでも言いたげに、手抜き工事があったことを認めた。そして自分の私利私欲のために行ったことだと、俺を嵌めた理由もあっさり教えた。


 今までの立場を崩された怒りと、溜め込んできた鬱憤が爆発して…俺は、現場長を殴ってしまった。

 何度も、何度も、何度も、何度も…現場長の顔の形が変わるまで殴り続けた。止めることはできなかった。

 誰かが呼んだ警察によって俺は取り押さえられ、留置場へ入ることになった。


 二年で釈放された俺は実家へ戻り、病気で弱った母親と再会した。会いたくもない兄とも会ってしまったが。

 兄は俺が留置場へ入っている間も、借金を作り続けていたらしい。兄は、また、返せなくなりつつある借金を返済するために、実家へ来て、母親に金を強請っていた。

 そんな様子を見て俺が小言を言い、兄も小言を返し…小言から口喧嘩になって、気がつけば拳で喧嘩をしていた。

 乱闘の合間に兄が警察を呼んで、「俺の弟は精神科に通っていたことがある」と妄言を吐き、それを聞いた警察が、俺を警察病院へ連れて行った。


 警察病院の精神科で出会ったのが、屑野だった。

 俺は、医者の屑野だったら、全ての誤解を解いてくれるかもしれないと思い、この病院にくるまでの経緯を話した。

 屑野は親身になって俺の話を聞いてくれた…ように見えただけだった。


 屑野は俺が寝ている間に脳波をとり、わざと精神異常だと診断した。

 俺は何度も違うと説明したが、屑野は胡散臭い笑みを浮かべるだけで、俺の話を一切聞き入れようとしない。

 きっと屑野は、まだ活気的ではないロボトミー手術の実験を行いたいのだろう。

 俺は屑野と会話を進めるたびに、彼の目を見て気づいたことがある。

 屑野は現場長や兄と同じ瞳をしていた。


 自分の欲以外何も映さない、そんな穢れた瞳。最後にそんなことを思い出して、俺は走馬灯から覚めた。

 アイスピックがまだ、眼前を迫っている。

 走馬灯からなんのヒントも得られないまま、目覚めてしまった。

(もう一度、説明してみるか?)

 手抜き工事を発見した日、現場長が俺を嵌めるために仕組まれたこと。

 理由もなく兄を殴ったわけじゃないこと。

 精神科に通っていたという証言は、全部…兄の妄言だったこと。

 けれど全部説明したとしても、目の前にいる欲に塗れた人間は、どうせ聞きやしないだろう。

 アイスピックの先端がまぶたに触れ、先端をまぶたと眼球の間に差し込まれる。無機質な冷たさがまぶたの裏に伝わった。

「やめ…ろ、っぁ!?」

 俺が声を発したのを合図に、屑野は脳味噌を貫く。

 屑野は金槌を左手にとり、アイスピックをさらに奥へ押し込もうと、アイスピックに金槌を振るった。

カン!カンッ!

「う゛、ぁ…」

 アイスピックと金槌がぶつかりあうたび、俺の身体に衝撃が走り、身の毛がよだち、脳をいじられる気持ち悪さに見舞われる。

(もう嫌だ、)

「も、や…め」

「これを乗り越えれば、楽になれますよ…もう少しの辛抱です」

カンッッ!!

 強い衝撃で身体が波打つ。

 二度と溢れることのない涙が頬を伝うのを感じながら、俺は意識を手放した。







 彼は、本当に何も感じなくなっていた。

 彼は誰に何を言われても、怒らなくなった。悔しがることもなかった。苦しむことも、憎むことも、悲しむことも、恥じることも、いずれもなかった。

 同時に、喜ぶことも、幸せに感じることも、憧れを抱くことも、感動することもなかった。

 全ての感情を失っているものだから、彼は何か仕事を始めた時も興味が湧かず、やる気も出ない彼は仕事をやめた。


 彼はただ呆然と、実家のベランダから見える景色を眺め始めた。


 真っ白な雪がはらはらと舞い落ち、辺りに白い化粧を施していく姿…

 淡い色の桜が春を彩り、儚さを残して散っていく姿…


 彼は涙も流すことなく、ただ景色を眺める。

(こんなに美しい景色を眺めても、何も感じないんだな)


 泣いてみよう。移りゆく季節の中、何度も思うことはあった。

 自分が辛かったと思う出来事を全て並べて、思い出して、少しでも泣けるよう、試みたことがあった。


 どうしても、泣けなかった。


 赤ん坊の頃は理由もなく泣いていたのに、今はどれだけの理由を並べても泣けずにいる。

 ロボットのようで、ロボットにもなれない俺は、もう生きる価値もないのだろう。


 雨と紫陽花がよく似合う季節。

 彼は、この長く続く雨が止むことを願いながら、てるてるぼうずの真似をした。


 明くる朝。 

 燦々とした光が、彼の宙に浮く足を照らす。

 

 彼は自分の願いが叶ったことも知らぬまま、てるてる坊主の真似を続けている。

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亜来輝 @Tellalie_TRBY

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